鎌倉・古河時代からの喜連川一色家の動向と
               古河公方家からの喜連川家の動向


     一色直明 宮内大輔、従五位下、正四位侍従、八郎

            一色左京大夫(長兼)養子、実大納言源義嗣卿二男、京都御代官御旗ヲ頂戴

            在鎌倉 持氏依御入魂山内上杉安房守以 言被誅之、直明子供為、

            御引汲五山之間被隠置之、杉本観音石坂右方館也、左方将軍御座所也

            代々 八幡宮為元服故号、八郎

             法名 大林寺鏡心道勲居士 鎌倉下云々


     一色亀乙丸 持氏御自害之時殉死、十三歳
              (一色宮内大輔直明嫡男


     一色直清 九歳之時京都召登三年籠舎、十一歳之時在国 成氏之時節京都蜂起、東北

            乱入、直明カ通先例御旗頂戴、両総房豆相之引卒諸軍東海道発向、三嶋合

            戦敗北、其時鎌倉広徳庵御感之有御内書

            任従五位下、宮内大輔、法名宝持寺孝厳淋相居士(一色宮内大輔直明三男


     一色蔵主 号三浦蔵主、建長寺僧 (一色宮内大輔直明長男)

            母 三浦氏、成氏.鎌倉還御之上従、 州直清下向之後為還俗、

            右衛門佐、従五位下


   つまり、「永亨の乱」1438年により鎌倉(藤沢)の一色家(一色直兼家)を一色宮内大輔直明の長男(長庶子)、一色蔵主が再興された

   五代鎌倉公方足利成氏に従い還俗し相続したのが鎌倉から古河・喜連川と至る喜連川一色家の始まりとなる。


   以下の古河公方発給文書の宛先となる、一色姓の人物達は、幸手一色家の系図上に無い人物であることから古河・喜連川と続く喜連

   川一色家の人物として対比できる。



  年不詳 十二月五日 一色左馬助   足利成氏からの書   「恐々謹言」

                          「依迷惑至極候、不園 御出行分候哉、驚入候、

                          既年来甚忍候上者、前之思案誠以って嘆き敷き次第候

                          可心安心候地等之事、巨細は印東宮内少輔に申しつけ

                          候  恐々謹言」


  年不詳 七月一日  一色五郎     足利高基からの書   「恐々謹言」

                          「好ヶ時節在陣感悦候・・」


  年不詳 霜月五日  一色兵部大輔  足利高基からの書   「恐々謹言」

                          「今度下総.請出御馬・・・」


  年月日不詳      一色兵部大輔  足利高基からの書   「恐々謹言」

                          「安養院殿十七回忌・・・」

                         *「安養院殿」とは高基の母で梁田高助の叔母である*


  1528年 享禄元年 十二月七日    足利晴氏元服次第記禄(晴氏15歳?)

                          「・・宿老中御對面、初□一色、野田、佐々木、二階堂、

                          梶原、海老名、梁田、本間、印東、ニ□ 町野淡路守・

                          殖野中務大輔・野田式部大夫、三□ 畠山、佐野、御三

                          □過・・・・・・」


                      注) 上記は岩松家家臣により記録された、足利晴氏の元服にあたり、古河公方家の宿老達の対面

                         の順番である。 この頃の関東一色氏には古河宿老の古河一色家と幸手城主の一色家がある

                         が幸手一色家とならび古河公方家を支える関宿城主の梁田家が7番目となっていることからここ

                         での「一色」は宿老古河一色家ととらえることができる。また、五代鎌倉公方足利成氏が古河に

                         移る時、これに還俗して従った一色直明の長男、一色右衛門佐蔵主(従五位下)の流れである

                         古河一色家の古河公方家宿老としての位置付を確認できる文書である。


  1535年 天文四年     足利高基  古河城にて卒


         同年       足利晴氏   家督相続


  1537年 天文十四年   一色八郎古河における所領検地目録より「こうたて」「目吹」の所領が確認できる。


  1552年 天文二十一年 足利晴氏、後北条退治を企てるが、北条氏康に察知され古河を囲まれ、晴氏父子相州波多野へ移される。

                  晴氏は関宿城にて隠居せられる

                注)この件は、晴氏の嫡子をだれにするかが、この騒乱の種となった。晴氏には二人の男子があり、簗田家を

                  生家とする正室の子である長男藤氏と北条氏康の妹(側室)の子である幼少の次男義氏である。晴氏は

                  長男の藤氏を嫡子として上杉家の力をえて後北条を抑え打とうとしていたようで古河城にて篭城した。「北

                  条氏康は古河城を三方から取り囲んだのに対して、城内から簗田中務大輔、一色刑部少輔、二階堂等が

                  切り出したが敵わなず敗戦。」(簗田家文書より)

                  後に、長男藤氏が途中病死したため、上杉謙信のの介入理由がなくなり関宿城も奪われた。この後、一色

                  刑部少輔が古河城代として城を守り、後北条家の加護にあった幼少の義氏が古河に戻るまで続いた。梁田

                  本家は、関宿城を奪われ分家の水海城に引き失脚した。


  1555年 弘政元年    晴氏嫡子、室町将軍義輝の一字賜り足利義氏となり元服、北条氏康が補佐して家督相続(十八歳)、正式

                  に関東公方となる。この元服式は鎌倉鶴ヶ岡八幡宮で行われ千人前後の武者揃の中で行われ、一色刑部

                  少輔、簗田中務大輔(分家)、吉良左兵衛佐等がそれぞれ、水引き、太刀持ち、唐傘持ちなどの役をおこな

                  った。(簗田家文書より)


  1560年 永禄三年    足利晴氏、関宿城にて死去


  1574年 天正二年    一色右衛門佐(氏久・古河)へ  北条氏照からの書   「恐々謹言」

                 「北の敵が出張し、すでに(上野)赤石に至りて陣取っているということを聞いているので小田原より夜中で

                 あっても打ち透し、一昨日極暮に着城申し候 昨日は ・・・・このたびその地(古河)にお盾籠もりということ

                 で、肝要至極に存知候。幸い氏照は御膝下にあり、御下知をたまわりそちらへ向かっており、何事にも不足

                 ないよう働く(走り廻る)べく候。氏政の所にも、その地(古河)への加勢をはじめとして、万端 仰せだされ候。

                 何れもお請けに及ばれ候。やがて着城申すべく候。これまた御心易かるべく候。 委曲伊首座御演説ある

                 べく候。 恐々謹言」



  1577年 天正五年   一色右衛門佐(氏久・古河)へ  北条氏照からの書 「恐々謹言」

                 「謹みて言上す。 そもそも氏政から内々に申し付けられたことは、敵が動いたときは、古河の御仕置き肝要

                 に候。御膝下の面々、敵と候えば宿城まで懸けでられる者があることは是非なき次第に候。 向後において

                 は、定め置かれた役をまっとうすべきよう御下知することが肝要に候。 万一御掟に背く輩においては、すみ

                 やかに切腹させるべきに候。 恐れながら御内儀申し上げの段、堅く申し付けられ候の条はこの如くに候。

                 右の筋目を御披露仰ぐ所に候。  恐々謹言」


  年不詳 九月廿五日  一色中務大輔へ  足利義氏からの官途状   「謹言」

                  「官途のこと申し上げそうろう。可有御意得そうろう。謹言」


  1582年 天正十年   足利義氏 古河城にて死去 「香雲院殿長山周善公大居士」


  1583年 天正十一年  一色右衛門佐(氏久・古河)  北條氏政からの書    「恐々謹言」


  1583年 天正十一年  一色右衛門佐(氏久・古河)  北條氏照からの書    「恐々謹言」


  1585年 天正十三年  一色右衛門佐(氏久・古河) 

                 古河足利家奉公人連署書 「恐々敬白」


  1590年 天正十八年  足利氏女、足利国朝、婚姻により下総古河に移り、野州喜連川四百貫の所領賜り国朝、義氏の家を相続

                 する。


         同年     一色右衛門佐(氏久・古河)  山中長俊からの書  「恐々謹言」


  1593年 文禄二年   足利国朝、豊臣秀吉の朝鮮出兵に応呼、芸州にて病、卒法名「法常院殿球山良公大居士」


         同年     国朝の弟足利頼氏、氏女と婚姻、兄国朝の遺領相続、喜連川に移る。


  1596年 慶長元年    一色右衛門佐(氏久・古河)  大久保長安ら連署書 「恐々謹言」


  1597年 慶長二年    一色右衛門佐(氏久・古河)  増田長盛から書状  「恐々謹言」


  1598年 慶長三年    豊臣秀吉 卒


  1600年 慶長五年    関が原合戦


  1601年 慶長六年    一色下野守氏久(前右衛門佐)死去 法名「松香院圭峰周玄居士」 徳源院過去帳より


  1602年 慶長七年二月 龍光院主へ「龍光院寺領宛行状」 一色刑部義久(印)二階堂主殿久□(印)の2名連判


  1603年 慶長八年    徳川家康、征夷大将軍となり江戸幕府を開く


  1615年 元和元年二月 「長百姓・由緒の者由来仰せ渡し書」 一色下野守(前刑部少輔義久)殿へ 小関郷右衛

                  門殿、黒駒七左衛門殿、富田又左衛門殿より


  1619年 元和五年    喜連川尊信、古河鴻巣御所にて生誕


  1620年 元和六年    足利氏女 古河鴻巣御所にて卒 「徳源院殿慈峰晃公大禅定尼」


  1630年 寛永七年    二代喜連川頼氏、喜連川城にて卒 「大樹院殿涼山蔭公大居士」


         同年       一色下野守義久は隠居、嫡子一色刑部少輔崇貞が喜連川足利家三代目筆頭家老となる。


         同年       喜連川尊信(11歳)、遺領相続、三代喜連川藩主となる。


   不明 二月二十八日  一色刑部少輔・二階堂主殿への松平正綱からの書状「恐々謹言」

                  内容:進物への礼状(喜連川文書


   不明 極月二十九日  一色刑部少輔・二階堂主殿助への神尾元勝からの書状

                  内容:尊信様が来る正月二日に、御出仕される候に、私も出向き御馳走したいので、伝え

                  ていただきたい。 恐惶謹言(喜連川文書


   不明 極月二十八日  一色刑部少輔・二階堂主殿助への松平忠次からの書状「恐々謹言」


                  内容:御歳暮の祝儀と使者をいただき、かたじけなく候、御登城いただいた使者にも会え

                  ず、御参勤もできず、早々に申し上げず迷惑いたし候、(尊信様には)しかるべき様、おう

                  せ給うべく候(喜連川文書


  1642年 寛永十九年正月 一色刑部少輔への(大老)土井大炊頭からの書状「恐々謹言」
                 概要:将軍家への年頭挨拶にあたり喜連川尊信が病気に付、二階
                 堂主殿助を尊信の御名代とすることを伝えた一色刑部の書状への
                 土井大炊頭の承諾の書状

                 内容:尊書をかたじけなく拝見いたし候。改年の喜びを申し納め候、
                 つぎに年頭の挨拶に御参向なさるべく候ところ、旧冬から病気であ
                 るので御名代として二階堂主殿方をもって仰せられ候、その意を得
                 奉り候、委細のことは老中から申し達せらるべく候
                 さらに、御祝儀として雉子(キジ)十下し置かれ候、まことに御念入ら
                 せられ候段、過分かたじけなく存じ奉り候、これらの通り、よろしく御
                 心得に預かるべく候、恐々謹言(喜連川文書

  1642年 寛永十九年十月二十八日  喜連川昭氏、喜連川御所にて生誕

         同年十二月     喜連川昭氏の生母、卒  「欣浄院殿深誉妙心大姉」

  1644年 寛永二十一年 大老土井大炊頭、高齢と病気にて死去。

      不明       次席家老、二階堂主殿助はおそらくこの間に死去し、柴田久右衛門
                が家老として補填されたと思われる。

  1648年 慶安元年十二月 一色刑部少輔(筆頭家老)、喜連川尊信の発狂を幕府に隠した罪
                   により、他の家老柴田久右衛門・伊賀金右衛門と共に伊豆大嶋へ
                   流刑となる
         同上     相木金右衛門(刑部長男)父刑部に連座し摂州尼崎青山大膳亮預かり
         同上     一色左京(刑部次男)   父刑部に連座し泉州岸和田城主岡部美濃守
                預かり
         同上     一色八郎(刑部三男)   父刑部に連座し、兄左京に同じく岡部美濃守
                預かり
         同上     一色五郎左衛門崇利(刑部実弟)兄刑部に連座し浪人する。
                氏家の根岸へ移住
         同上     山野金右衛門(刑部実弟)兄刑部に連座、浪人し幸手一色家へ?
         同上     三代喜連川尊信、徳川家光の命に隠居せられる。

  1649年 慶安二年  喜連川昭氏(7歳)、徳川家光の命により親族榊原(松平)式部大輔忠次
                の後見にて四代喜連川藩主となる。(側室の子による相続)

  1650年 慶安三年  五月 幕命にて隠居&押込中の先代喜連川尊信と正室の間に喜連川右
                衛門督氏信 生誕(正室の子である男子の誕生)

                七月十一日 一色下野守義久、死去 法名「□□院長岳宗久居士」
                        龍光寺一色家墓所の墓より

        一色刑部少輔崇貞の実弟一色五郎左衛門崇利(連談)に喜連川家より帰参命令が下
        る。一色五郎左衛門は根岸五郎左衛門として喜連川家へ再仕(『喜連川町史』第三巻
        資料編3近世より)この時、龍光寺の一色家墓所に慶安三年に死去した父である一色
        下野守義久と母達の墓石を建立したと思われる。

         一色五郎左衛門崇利の突然の帰参理由は甥となる四代昭氏(9歳)の補佐と弟氏信
         の教育係として喜連川家内の家中の乱れを予防することと思われる。

  1651年 慶安四年  六月 四代昭氏の後見人であった榊原(松平)式部大輔忠次が白河城主
                から遠い西国となる播磨姫路城主となる。

  1653年 承應二年  三代喜連川尊信公 喜連川にて卒 35歳 「瑞芳院殿昌山桂公大居士」

  1656年 明暦二年  一色刑部少輔崇貞、伊豆大嶋にて卒72〜74歳 
                法名「翠竹院松山宗貞居士」
                徳源院過去帳&龍光寺一色家墓所の墓石より

  1662年 徳川家光の十三回忌の時、一色刑部崇貞の男子三人許され、岡崎藩主水野監物
        (忠善)家にて一色左京を当主として再興、客分・二百人扶持(2000〜3000石)その後
        嫡子なしにて断絶(『及聞秘録』『喜連川義氏家譜』より)

  1670年 寛文十年五月 喜連川右衛門督氏信公 死去(享年20歳)

  1683年 天和三年 四月十一日 三河岡崎にて一色刑部少輔崇貞の嫡子、一色左京、死去
                       男子無しにて断絶(従っていた兄相木与右衛門、弟一色八
                       郎(石塔八郎)にも男子無し?)

              この時、岡崎藩水野家から四代喜連川昭氏公を通し、一色左京の死去が
              根岸丹右衛門連談に知らされ、兄一色刑部少輔崇貞とその嫡子一色左京
              の墓石を建立したと思われる。(刑部・左京親子の墓石は一緒であり彫り手
              の筆跡が同じである)

  1713年 正徳三年  四代喜連川右兵衛督昭氏公 喜連川屋形にて卒 72才 
                法名「令徳院殿孝山恭公大居士」

  1722年 享保六年  五代喜連川氏春公 卒 法名「太常院天山道公大居士」



  以後、鎌倉公方家と共に鎌倉〜古河〜喜連川と移った喜連川一色家は、喜連川家筆頭家老
  一色刑部少輔氏義の実弟である一色五郎左衛門=根岸丹右衛門連談(達)だけとなる。根岸
  丹右衛門連談は事件後に帰参し、隠居中の三代尊信公、四代昭氏公、実弟氏信公に再仕後、
  城下で三件の宿屋を始める。屋号「柏屋」、以後代々当主は根岸丹右衛門を名乗る。
  (『喜連川町史』第三巻資料編3近世に編纂された古文書である喜連川旧領主塩谷家、家臣「
  小林出羽守家代々日記」より。)



     「古河公方家当主の在位期間と死去」


   足利成氏 明慶六年(1497)九月晦日 古河城て卒 64歳  
          在位(1438〜1497年) 49年間

   足利政氏 亨禄四年(1531)七月十八日 久喜にて卒    
          在位(1497〜1512年) 15年間

   足利高基 天文四年(1535)十月八日  古河城にて卒   
          在位(1512〜1535年) 23年間

   足利晴氏 永禄三年(1560)五月二十三日 関宿城にて卒 
          在位(1535〜1552年) 17年間

   足利義氏 天文十年(1541)正月十五日 生まれ
          天正十年(1582)十二月二十六日 古河城にて卒 
          在位(1552〜1582年) 30年間

     *足利義氏の家督相続は弘治元年(1555年)の家督(十二歳)であり北條氏康が
       補佐(後見人)である。これは、天文二十一年(1552年)父である足利晴氏が
       北條退治を企てたが氏康はこれを察知して古河を囲み晴氏父子を相州波田野
       へ移し、晴氏を関宿にて隠居させ、義氏に家督を相続させた。
      (「足利聡氏家譜」東京大学史科編纂所所蔵より)

   足利氏女 天正二年(1574年) 生まれ 
          元和六年(1620年)五月六日 鴻巣御所にて卒
          (生涯喜連川には行くことはなかった。墓所、古河徳源院、大檀那)

     *義氏の嫡子、梅千代王丸早世、氏女九歳(1583年)の時遺臣らに守られ古河城に
       居住、後鴻巣に移住す、豊臣関白家の命により上総小弓御所国朝と婚姻する。
       国朝は頼純の長男、小弓御所右兵衛佐義明の嫡孫で当家の嫡流也。
       (「足利聡氏家譜」東京大学史科編纂所所蔵より)