10 <<喜連川騒動事件における関係者の動機解析>>


     <筆頭家老一色刑部・左京親子の動機>

      事件当時、喜連川尊信の病弱により、もはや正室に男児が生まれる訳もなく、

      側室であった一色家の娘(欣浄院殿)が生んだ藩主尊信の長男昭氏の世継ぎは

      すでに決まっていた。 しかも、なんと三家老の合議による「押込中」に喜連川尊信

      は嫡男昭氏をもうけている。 この「押込め」とは外出禁止のことのようだ。


      また、喜連川の一色家の家祖は、足利尊氏の4代前の当主足利泰氏の七男足利

      公深であり、永亨の乱の敗戦により、自決した四代鎌倉公方足利持氏と共に、武

      蔵国金沢の称名寺にて奉公衆筆頭であった鎌倉一色家当主の一色直兼と一色

      直明・一色亀乙丸(直明嫡子)は殉死した。 その後幕府により再興された五代鎌

      倉公方足利成氏の主命により、鎌倉建長寺僧侶となっていた一色蔵主(直明の

      長男)が還俗。一色右衛門佐蔵主(従五位下)となり、鎌倉公方家の奉公衆筆頭

      の鎌倉一色家を相続した故事がある。


      さらに古河公方家最後の奉公衆筆頭(古河城代家老)一色右衛門佐氏久と嫡子

      一色刑部少輔(下野守)義久は初代喜連川藩祖足利国朝から二代頼氏まで、50

      年に渡り筆頭家老を勤め、この嫡子一色刑部少輔崇貞が事件を起こしたとされる

      のが喜連川家の3代筆頭家老一色刑部である。


      上記の通り、鎌倉から古河、そして喜連川と、一貫して足利家の御一家であると

      同時に、筆頭家老家である一色家の当主一色刑部少輔崇貞(従五位下)がこれ

      により出世する訳もない。


      3代喜連川尊信はすでに、「武家諸法度」に従い幕府の了承を受け、正室(那須

      資景の娘)を娶っているので他家から、さらに側室を娶れることはない。 出世す

      ることがない筆頭家老の娘を側室にしたので、藩内の家臣間の勢力争いの心配

      もなく、喜連川藩の嫡子問題は順調に解決し、3代尊信公と親族一色刑部の間に

      は、なんら確執はないのである。


      すなわち元来、筆頭家老格である喜連川一色家の刑部・左京親子に、わざわざ

      「藩政乗っ取り事件」を起こす動機がまったく、存在しない。


      そもそも、下克上の時代(戦国時代)に終わりを告げた徳川幕府体制において、

      「筆頭家老家の藩政乗っ取り」と言う事件は成立しえないのである。国政は幕府

      の責務であり、幕政は老中達の責務であり、藩政は家老達の責務となり、天皇

      家、将軍家、大名家が自ら象徴となり、神輿となることで戦乱のない平和を維持

      する時代への変化を察した前田家では、藩政は家老達にまかせ、藩主はバカ

      殿に徹することで、幕府から警戒されることなく、お家断絶の危機を乗り越えて

      いる。


      しかし、「幕府を騒がせた直訴事件」(喜連川騒動事件)を未然に防げなかったと

      「藩主の発狂の事実」を幕府に隠したと言う点で、藩政を預かるべき家老の職務

      としての責はある。


      そして、「藩主の発狂」は「家老たちの意見を聞き入れない藩主」つまり、独裁が

      疑われ、幕府体制を揺るがしかねないとして、大名家改易の要因の一つとなる。


      大名家から見れば、幕府にこれを隠す行為は当然の行為で、喜連川家の家老と

      しても足利家の一族としても、当然の行為であったのである。 ただし、領民・国民

      の平和を維持する幕府の「武家諸法度」であり、同族金地院(一色)崇伝の作った

      物でもあり、法は法であり、やむおえないことと思われる。


      一方、喜連川の一色家が出世を望むならば「僅か3800石の藩主の押し込め」よりも

      他の足利家庶家(吉良家・渋川家・品川家・幸手一色家などなど)にならい徳川将軍

      家の高家旗本であり喜連川(足利)家の御一家として2000石〜3000石の高禄なり

      領地を得るほうが現状の喜連川家筆頭家老の微禄(250石)より、明らかな得策で

      あった。



     <次席家老二階堂又市(主膳介)の動機>

      一方、若輩15歳であり、まだ分別もなく権力欲にのみ走る若家老の二階堂又市と

      その配下の家臣達にとって、藩内唯一の足利家庶家で、常に筆頭家老格の一色家

      さえ無くなれば、二階堂家が筆頭家老の家格に代われると言う、「藩政乗っ取り」の

      動機がある。この二階堂又市は、古河公方家の御連判衆の1人、簗田高助の女婿

      であり、国府台合戦の時、小弓公方足利義明に組して戦い、戦死した、椎津行憲の

      子孫である、椎津下総守主殿の子であり、小弓系家臣の筆頭である。



   <3代尊信の正室の動機>

      そして、正室でありながら男児を生めない那須資景の娘には、男児が生めなくとも

      一色家さえなくなれば4代昭氏の時代になってもその権力が守られる言う動機が

      ある。 しかし、喜連川家が改易となれば元も子もない、微妙な立場です。


      余談ですが、4代昭氏の養子で約20歳で死去した喜連川氏信の出生年は、事件の

      翌年である慶安2年(1650)であり実父は3代喜連川尊信です。 側室(4代昭氏の

      生母)は1642年12月に死去してますので、生母はこの正室(那須資景の娘)の可能

      性が高いのである。 


      よって、彼女も1648年の自称尊信派による幕府への上訴(喜連川騒動)により事件

      後に正室である彼女と、3代尊信との間に生まれた氏信が藩主になれなかったこと

      は、皮肉なことではなかったか?。 『寛政重修諸家譜』による。  実際のところ、

      喜連川の専念寺にある、「喜連川足利家側室子女の墓」の中には、喜連川昭氏の

      実弟喜連川氏信の生母と推測できる死去年を刻む側室の墓はない。


      しかし、『寛政重修諸家譜』の喜連川氏信の記録では、彼の生母は某氏となってい

      る。  これは、側室の子である4代喜連川昭氏が、喜連川家の安泰を考慮し実弟

      氏信が、実は正室の子であることを、氏信に隠した可能性を残すものと考える。



   <浪人となった古河系老臣高野修理と梶原平右衛門の動機>

      また、尊信派の高野修理が本当は足利国朝に従い喜連川に向かった家臣達・尊信

      期の喜連川文書の土井利勝や本多正信からの文書で確認できる高(こうの)修理亮

      であれば、古河系家臣の中では、一色刑部に準じる次席家老格であり、高(こうの)

      修理が古河公方家家臣で御連判衆であった高(こうの)大和守氏師の子孫であれば

      十分な動機となるということです。喜連川文書参照。


      古河公方家に残された、足利氏姫(古河姫)や足利義氏に後北条氏などから送られ

      た手紙『喜連川文書』には、一色右衛門佐の後に連なる人物名に、高大和守、や高

      修理亮、高修理助などの名が見られ、古河公方家において、高家は一色家に続く次

      席の家格であることが伺えるからです。 また、二階堂又市(主膳助)の先祖となる、

      梁田高助の子孫助寛の名は高家の後に記されている。(この序列は、どの手紙「古

      文書」を見ても同じである。 であれば、老臣高(こうの)修理亮の心情が伺え知れま

      す。



      であれば、高(こうの)修理亮は古河の鴻之巣御所にて、氏姫と孫の尊信に仕えて

      いたので、天正十八年(1590)の初代喜連川国朝の喜連川領入国に伴なった小弓

      系の二階堂家が次席家老格となったことは我慢しても、これより四十年後となる寛永

      七年(1630)の二代喜連川頼氏の死去に伴い、三代となった喜連川尊信(11歳)、の

      古河鴻之巣御所から喜連川領への入国に従った古河系家臣の名は

                                               高   修 理
                                       伊勢守子 伊賀 金右衛門
                                       高修理弟 印東 内 記
                                       讃岐守子 相馬 勤 ○
                                              柴田 久右衛門
                                              梶原 平右衛門
                                       本名細井 渋江 弥五兵衛

      の序列であった。 つまり、後の二階堂主殿の死去に伴う家老の移動人事で、伊賀

      金右衛門どころか、柴田久右衛門までもが、高修理と梶原平右衛門を差し置いて

      喜連川家の家老となっていたことである。 たしかに、この頃の江戸幕府は、戦国の

      世を脱すべく、幕府体制は武官から文官の時代に変化する時期であり、家格という

      ものは当然存在したが、家格と才能が幕府組織を構成する序列において、重視され

      た時期です。 当然、大名家においてもその流れは影響した時期です。 ところが、

      高と梶原には、長く家格が序列を決める、旧体制の古河鴻巣御所にいたが故か?

      まだ、そのことを理解できずにいたのではなかろうか。

      (「喜連川足利家の成り立ち及び、喜連川一色家」を参照)



      ゆえに、若い二階堂又市(主膳助)をたぶらかし、幕府への直訴事件さえ成功させ

      れば、ことの真相はどうあれ、幕府の命により事件の責をとらされ、3代尊信と一色

      刑部と二階堂又市、そして伊賀・柴田の二人も失脚する。   その後、藩内で4代

      昭氏(7歳)を担げば、残るは逸見のみであるが、逸見家は小弓系であり、次は元

      古河公方家連判衆の高(こうの)家と梶原家の自分等であると。  だとするなら、

      老臣高修理亮等の、この時とばかりに、たとえ浪人し、姓名を変え、五人の百姓を

      だまし、利用してでも直訴事件を起こそうとする執念と動機は十分に理解できます。


      老臣「高修理亮」から改名し浪人「高野修理」へ。


      すなわち、喜連川町史の「狂える名君」と喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」

      逆臣として記述される、一色派には喜連川尊信への謀反の動機は無く。 逆に、

      上記の2誌で、事件のヒーローで忠臣とされる尊信派には、三代尊信への謀反と

      十分な「藩政乗っ取り」の動機が存在するのである。 直訴=藩主の失脚(致仕)

      と、判っていながら幕府に上訴する行為こそは、明らかな藩主尊信に対する謀反

      である。