喜連川家の側室婦女子の墓
                    平成17年8月3日整備

 






    「欣浄院殿深誉妙心大姉」     寛永19年12月2日   1642年   4代藩主喜連川昭氏生母
    (大壇那として専念寺再興)                         (中央の墓で尊信側室、筆頭家老一色刑部の娘(養女))

    「法雲院殿三誉治庵皓月大姉」  延宝2年7月18日   1674年

    「隆岳院殿乗誉寿散大姉」     貞享2年9月      1685年

    「櫻岳院殿鎮誉花香大童女」    元禄16年3月      1703年   5代藩主喜連川氏春息女

    「光慶院殿顔誉厳天清雲大姉」  正徳3年5月22日   1713年

    「成生院殿仁誉貞仙大姉」     享保12年3月21日   1727年

    「清香院殿浄誉光蓮大姉」     天文3年6月18日   1738年

    「常信院殿練誉薫栄大姉」     寛保1年7月23日   1741年

    「玉昇院殿班誉妙進大姉」     天保14年4月15日   1843年

    「浄光院殿照誉専心得念大姉」  文久2年8月19日   1862年


     墓石および寺の過去帳より判明した方々のみ記述した


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    ここにも、喜連川騒動の真実を示す鍵が存在しています。それは、事件の二十年以上後に、幕府により編纂された
    『寛政重修諸家譜』では、4代喜連川昭氏の生母と昭氏(左兵衛督)の八歳離れた慶安二年に生まれた弟氏信(右
    衛門督)の生母が同じだと記録されていることです。

    昭氏の生母「欣浄院殿」は、昭氏を生んで直ぐに死去していることは、この墓石でも明らかで、ありえないことです。

    『寛政重修諸家譜』は幕府が全国の諸大名家に提出させた家譜から編纂したものですが、喜連川家では家老の
    二階堂の名で提出されています。(当然、家譜に昭氏と氏信の生母を同じと記録したのは、氏信が生まれた時で、
    二階堂の白河藩からの帰参前となります。)

    このことは、喜連川家にとって、4代昭氏と氏信の生母を同じとすることが、なんらかの理由から必要となったことが
    想定されます。

    実は、氏信は狂乱中で押籠中の隠居後の尊信と正室との子ではないかと、私は睨んでいます。

    氏信が正室の子であれば、側室の子である昭氏が将軍徳川家光の命令で4代当主となった年の翌年に、生まれた
    本来の嫡子氏信との確執は喜連川家の危機となるからです。

    昭氏は、自分の嫡子が早死したあと、氏信を養子にし嫡子としますが、昭氏が28歳の時、氏信は20歳で早死。

    そして、喜連川騒動事件の沙汰として、幕命により白河藩にお預けとなっていた二階堂主殿(膳)の帰参願いを4代
    昭氏が幕府に提出したのが、事件の20年後のこの時であったのです。

    つまり、喜連川家に騒動の種が払拭された後に、側室の子4代昭氏からの二階堂の帰参願いが提出されたことが
    この『寛政重修諸家譜』の矛盾を解き明かす鍵であると考えられるのです。