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  これまで、栃木県さくら市(旧喜連川町)発刊の『喜連川町郷土史』

  明治44発刊と『喜連川町誌』昭和52年発刊にて、喜連川家の本来

  の忠臣を逆臣とし、本来の逆臣をヒーローとして発表していた町史

  編纂関係者の町内や、世間でのお立場はわかりますが、史実は

  史実として、賢明な態度で受け止めていただきたいのです。 

  市町村の公的編纂者として、かつ第三者としての編纂に徹していれ

  ば、このような恥じるべき歪曲文献の発刊には至らなかったはずで

  、明治44年の『喜連川町郷土史』の発刊以来、80年間にわたる、同

  町内おける一色家子孫の立場を是正すべく、この『喜連川騒動にお

  ける一考察』の編集に至りました。


  すでに、「全国足利家由来の会」会員の龍光寺住職、専念寺住職に

  は喜連川の地に残された信憑性の低い百姓家の武勇伝でしかない

  家伝書と異なり、事件の利害関係に左右されない第三者により記録

  された。 しかも、実際に事件評定が行われた江戸に残された、公的

  な史料(古文書)を見ていただき、喜連川騒動事件の真実を、ご理解

  いただいております。


  そして、「一色家の墓」は、足利家(喜連川家)の危機を救った足利一門

  の墓として、永代に渡り後世に残すべき「喜連川の史跡」として管理いた

  だいており、またNHK大河ドラマ「太平記」放映の時は『喜連川一色家』

  の墓には、朱色の筆書きによる特別の立て札を立てていただいたことも

  確認しており、ここで改めて御礼申し上げます。 そして観光客の皆様に

  は、喜連川における一色家の存在を確認していただけたかと思います。


  しかし、旧喜連川町が『喜連川町郷土史』明治44発刊の「狂える名君」と

  『喜連川町誌』昭和52年発刊の「喜連川騒動の顛末」にて、事件のヒーロ

  ー役であった足利家の重臣「高(こうの)家」そして、鎌倉幕府創設以来の

  名家といえる「梶原家」の2家の墓は、喜連川騒動事件により撤去され、

  旧喜連川藩内には存在しないのです。 現在、「高野(たかの)家」の墓は

  ありますが、読みが異なり、戦国時代の旧領主「塩谷家」の家臣家で初代

  藩主足利国朝の喜連川入国の時、「長百姓」(土地と姓を持つ百姓)となっ

  た高野(たかの)加茂左衛門家と城下の町人となつた高野(たかの)鴨左

  衛門家の墓です。

  (平成19年発刊『喜連川町史』第三巻資料編3近世を参照)


  つまり、現在、『喜連川郷土史』(明治44年喜連川町発刊)と『喜連川町誌』

  (昭和52年喜連川町発刊)において逆臣とされた一色家の墓が、藩主であ

  る喜連川家墓所の門前に現在も存在し、忠臣とされた高野修理、梶原平右

  衛門の墓は全て、喜連川の地には存在しません。 

  おかしな話です。 これが、私にとつて、明治44年以来、八十年後の平成17

  年の現在に至ってまでも『喜連川郷土史』と『喜連川町誌』によって歪められ

  続けている喜連川騒動事件の真実解明の動機となったのです。



  また、『寛政重修諸家譜』(1789年1801年江戸幕府が編修した武家系譜集)の喜連川家の記述は、下の記述でも紹介して

  おりますが、喜連川騒動に係わった二階堂主膳(殿)助の150年後の子孫である当時の国老(二階堂家当主)により提出された2

  次史料を基にして、幕府の編纂者により記述された3次史料であり、この「喜連川騒動」に関する記述は歴史研究者としては曖昧

  で全面的に信頼できるものではありません。 しかし、旧喜連川町の発刊した『喜連川郷土史』明治44年版の「狂える名君」と『喜

  連川町誌』昭和52年版の「喜連川騒動の顛末」の喜連川騒動記述を十分に否定できる文献といえるでしょう。


  そして、東京大学史料編纂所の大日本史総合DBの「網文」を記録した、東京大学の研究者は、多数付記された出典文献の一つ

  である『寛政重修諸家譜』(1799年に幕府が全国の大名家に提出させた史料を基に作成)の喜連川尊信の項、にて一色刑部某

  と伊賀金右衛門某の名が、事件記述に存在するにもかかわらず、彼等の名前を「網文」記述から、故意に外していることに留意

  しなければならない。 事件の真実は、上記の綱文に多々付けられた出典史料の最後に付記されている『及聞秘録』と平成19年

  3月発刊6月発売の『喜連川町史』第三巻史料編3近世『喜連川家由縁書』(東京大学史科編纂所所蔵)と『喜連川文書』(旧喜

  連川町教育委員会所蔵)に真実の記録が残されていたのです。 また、『及聞秘録』は作者、年代、制作地不明とされ、4次史料

  と見なされているようですが、この喜連川騒動の記述中に「この両名(高、梶原)は、江戸に来て」と記述されておりますので編纂

  者は江戸の人物であることが見受けられます。 さらに、「御當家に仕える」という表現から、岡崎藩主水野監物家の江戸藩邸関

  係者であることも伺えます。(水野監物家は徳川家親藩で徳川家康の母の生家)


  そして、「一色左京の岡崎藩(水野家)での二百人扶持とはとして石高に換算し2500〜3000石、喜連川藩での扶持の10倍以上)

  客分扱い(主家は喜連川家)での再興と嫡子不在による断絶」まで記述されていますので、元禄の頃からそれ以降に編纂された

  文献であることが判断でき、現存する『及聞秘録』はその写しですので3次史料と判断しても良いかと考えます。(筑波大学中央

  図書館和文書館所蔵) よって『及聞秘録』は、少なくとも江戸在住の第三者による編纂ですので、聞き及んだ事実に忠実な記述

  が期待されます。


  一方、『喜連川町誌』に執筆掲載された「喜連川騒動の顛末」の元となった史料である本年(平成17年)に現さくら市にて発刊され

  た「『喜連川町史』第三巻資料j編3近世」に掲載されている『喜連川家由縁書』(喜連川御家書)は喜連川騒動事件の当事者であ

  る「元百姓であった五人の家臣家」の家伝書ですので、彼等に都合よく歪曲された記述が含まれることを懸念すべきであり、「高」

  (こうの)と「高野」(こうの)の記録違いの理由も理解できるものであり、さらに以下の六つの記述にも注意をはらわねばならない。



  1) 「寛永七年(1641年)から、生来気性の荒い藩主喜連川尊信は、一色刑部等三家老により「押籠」となっていたが、正保四年

     (1647年)夏に梶原平右衛門ら直訴派の導きもあり、尊信から江戸行きの命令を直々にいただいたので、我々五人は忍んで

     江戸に登り、江戸で浪人中の高野修理の指導により幕府老中の松平伊豆守等に五人の由緒書を提出し相談した。 しかし、

     いくら待てども返事が無いので五人は一度帰国した。

     翌年、慶安元年(1648)春には、尊信の近習より「万姫を連れての江戸行きの命令書(正保四年八月十日付?)」をいただき

     、万姫と七人のお供衆と五人の同心衆と供に江戸に忍んで登り、幕府に直訴した。 結果、同年七月二十五日に藩主、喜連

     川尊信は七年間に渡る「押籠」から晴れて開放され、藩は危機を脱した。 一色刑部等三家老は伊豆大島へ流刑となった。」

     (概要)とある。 『喜連川家由緒書』(筆者訳)を参照。 しかし、何度読んでも矛盾だらけの記述であり、しかも、この記述の

     どこにも喜連川尊信の押し込め理由に「狂乱」や「偽狂乱」の文字が存在しないのである。 すなわち、『喜連川家由縁書』

     は、明治44年の「狂える名君」と昭和52年の「喜連川騒動の顛末」の二人の筆者が、その記述中で、なぜ「偽狂乱」の文字

     を思いついたか?が問題となる中、尊信の「発狂」の事実は以下の文献により間違いないものとして記録されている。


       ****(喜連川尊信の発狂及び事件による尊信致仕(強制隠居)と嫡子昭氏の家督相続を記録する多くの文書(公開資料)

           @ 『喜連川義氏家譜』
           A 『喜連川文書』
           B 『及聞秘録』
           C 『徳川実紀』
           D 『寛政重修諸家譜』喜連川尊信の項
           E 『喜連川判鑑』
           F 『人見私記』
           G 『慶安日記増補』
           H 『慶延略記』
           I 『寛明日記』
           J 『足利家譜(喜連川)(按)(又按)』


     つまり、「発狂の病」=「精神分裂病」の尊信が事件評定後においても「押籠」から開放された事実はなく、彼等(直訴派と五人

     の百姓)の”活躍?”によって、3代喜連川尊信は、徳川家光の命により致仕(強制隠居)させられたことになり、この『喜連川

     家由縁書』
の記録は矛盾している。


     一方、実は『喜連川家由縁書』にも、尊信致仕を示す「昭氏様七歳之時相続」の記録が残されています。 昭氏は寛永19年

     (1642年)10月24日生まれですのでその七年後は、慶安二年(1649年)10月24日となります。 さらに、後見人の榊原(松平)

     忠次は慶安二年(1649年)6月6日に奥州白川藩から姫路藩へ転封になっている

     (『寛政重修諸家譜』)ので、四代昭氏の家督相続はこれより前であることが理解できます。(後見人としての所領が遠くなる)


     なお、『寛政重修諸家譜』の記録では、幕府が喜連川の三家老と幕府評定所での喚問に言葉屈した高四郎左衛門と梶原平

     右衛門を伊豆大嶋に流した日付けは慶安元年(1648)12月22日です。 すなわち、事件の翌年の年初において、四代昭氏の

     家督相続と三代尊信の致仕(強制隠居)があったことが示されていることになります。

     まさに、寛文十一年の『喜連川家由縁書』と明治四十四年の「狂える名君」と昭和五十二年の「喜連川騒動の顛末」は、信頼

     すべき市町村発刊の文献でありながら、編纂者の先祖を英雄にっすべく、ゆがめられた矛盾と歪曲を示す”顛末転倒”の「恥ず

     べき文献」といわざるおえない。



  2) 慶安元年(1648年)の事件評定にあたった幕府老中に酒井雅楽頭(忠世?)、松平伊豆守(信綱)、土井大炊頭(利勝)、阿部

     豊後守(忠秋)の4名があげられている。


       ****(しかし、酒井雅楽頭(忠世)は、1634年(寛永十三年四月)に死去した人物(『寛政重修諸家譜』)、仮に酒井讃岐守

          忠勝であれば、土井利勝とともに、寛永十五年(1638)に大老になっている人物であり、官名は「讃岐守」であるので

          対比できない。 また、仮に孫の酒井雅楽頭忠清だとしても、彼が雅楽頭となり老中となったのは四代将軍徳川家綱

          の時(慶安四年)であり、事件当時(1648年)はまだ事件評定に関わる役職でない若年寄で河内守である。


          また、土井大炊頭(利勝)は1644年(寛永二十一年七月)の事件の4年前に死去している人物であり、大老職である

          ので、この『喜連川家由縁書』の記述にある序列もおかしい。 さらに、息子の土井遠江守利隆は若年寄までの出世

          であるので、この記録の”老中土井大炊頭”とは一致しない。)***



  3) 寛文十年五月(1670年)、四代昭氏公が遠出の時、我ら五人が昭氏公に嘆願し、昭氏公から幕府に嘆願した結果、白川城主

     本多能登守に預けられていた二階堂主殿又市は、喜連川への帰参が許された。


      ****(『及聞秘録』の記録では、大嶋に流された三家老とその男子は、全員事件の14年後、1662年の徳川家光の十三回

          忌に許されそれぞれ主取(家の再興)としたと記録されている。  また、二階堂主殿又市は、『喜連川町誌』の付属

          年表には1662年に喜連川に帰参していたとされ、この『喜連川町誌』の付属年表の記述とも矛盾する。


          おそらく、二階堂又市の帰参を昭和52年『喜連川町誌』の年表に記載した年表の作成者は、高修理亮・梶原平右衛

          門を慶安元年の喜連川騒動事件の主犯であったとする『及聞秘録』を参照して、その「「1662年に三家老が許された

          記述」から昭和52年の筆者は個人の主観のままに、矛盾を示す「1662年二階堂又市の帰参」を記録し史実の改竄を

          おこなったのかもしれない。 これを記述するならば、二階堂主殿の大島遠流の記録も『及聞秘録』に忠実に記述す

          べきです。)****



  4) この江戸への直訴の時、松平伊豆守から、「百姓でありながら、藩のために働くことは大儀である。再び江戸に出てきて仕え

     る意思があるなら百石扶持で召抱える」とゆう旨の覚え書き(書簡)をもらったが、子々孫々のために良くないので皆で相談

     して、帰国途中の栗橋で、破り捨て川に流した。 このことに由縁して我ら五人は喜連川家に仕官できた。 このことは、本当

     のことであるので子々孫々この文書を残すので、けして失くすことの無いように、とある。

     しかし、この事件の恩賞としての喜連川家における彼等の召抱えの扶持は6〜8石であるが?少なくとも、旧領主の塩谷家

     家臣であった三名なら松平家の百石扶持を望むべきであり、まったく理解できない。



  5) ”当事者”(五人の元百姓)が記録した家伝書(文書)の体を成しているが、事件での幕府の沙汰として、二階堂主殿又市の

     預け先を白川城主本多能登守であると記録している。 確かに、二階堂主殿又市は白川藩主本多能登守忠義から喜連川

     に帰参したことは事実だが、本多忠義が白川藩主となったのは慶安二年(1649年)6月6日です。彼は奥州白川への転封

     を期として前藩主榊原忠次から二階堂主殿助(又市)を預かったにすぎないのである。 


     さらに、『喜連川判鑑』・『喜連川義氏家譜』『及聞秘録』・『寛政重修諸家譜』『喜連川文書』(事件当時の老中が連判で

     榊原忠次に出した手紙)の全てに榊原忠次に預けたと記録されている。しかも、この『喜連川家由縁書』では、事件評定の

     終了日を慶安元年七月二十日と記述しているが、上記史料の『喜連川文書』に掲載された事件評定に係った幕府老中達

     から松平(榊原)忠次に宛てられた事件を語る手紙が3通あるが、いずれも慶安元年九月七日、九月十二日、十一月十八

     日の日付であり、事件評定の終了日は慶安元年十一月十八日である事実を示している。この記録は人物関係においても

     生存年代的にも整合性があり一致している。


     ところが、事件の”当時者であり、評定所にいた。”と語る本人等、五名が二階堂主殿助(又市)の預り先をなぜか白川城主

     本多能登守とし、事件評定が七月二十日に終了したとして評定に関係した幕府老中達のメンバー名が異なるなど、史実と

     明らかに異なる記録を、彼等が江戸の評定所にて確認したがごとくに”五人の連判”でのこしているのである。


     このことは、”五人の百姓が、正保四年(1647)の直訴を起こしたことは事実であるが、評定結果によって喜連川家と幕府の

     「おたずね者」となっており、事件評定に参加できる訳もなかった”ことを示すものとなり、同時に、当然彼等は喜連川にも帰

     れず、江戸に潜伏して万姫の籠とお供の者達の様子を江戸で観察していただけなので、正しい記録を残せなかったと判断

     できる。


     当然、彼等が”おたずね者”であった事実を示すことになり、将軍徳川家光の命による3代喜連川尊信の致仕(隠居)と4代

     昭氏の家督相続と後見人、榊原忠次の件と高野修理、梶原平右衛門の大嶋流刑の件が記録されていない訳で、「梅千代

     様七歳之時、左兵衛督昭氏公と奉申上候云・・・・是より昭氏公様御代ニ相也」とは記録されているが、自分達の直訴によ

     る三代尊信の致仕(強制隠居)を故意に隠していることになる。



  6) 『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の記述の中で示された、喜連川尊信が五人の百姓に渡した「江戸行きの命令書」

     (正保四年八月十日付け)の記録が、この『喜連川家由縁書』の中に記録されている。


     ****(ところが、実際のところ、この文書の存在は「『喜連川町史』第五巻 資料編「喜連川文書」」においても確認でき無い。

        また、『喜連川家由縁書』は江戸への直訴事件の始まりを「喜連川騒動の顛末」と同様に正保四年夏としている。 

        そして、五人の百姓の内ニ人は、藩祖足利国朝・二代頼氏に従い、上総小弓御所からきた由縁の者であるので、屋形

        内の梶原平右衛門のはからいにより押し籠め中の三代尊信に謁見し、この「江戸行きの命令書」を受け取った。と記述

        され、尊信の命令に従い翌朝江戸に立ち、途中旧領主塩谷家由来の他の三人の百姓と合流しした。 

        そして、先に江戸で潜伏中の高野修理と落ち合い、高野修理の用事(命令)により、松平伊豆守に会い、喜連川の事件

        の詳細を伝えたが「百姓の身分では、その訴えは、認められない。とはいえ、百姓だけで江戸に来て訴えにくるのは、

        ただならぬことではあるので、何か元武士であることを証明するものがあれば。」といわれ一時、訴えは頓挫となり喜連

        川に残る同志の中にも、家老達に寝返る者がでた。 と確かに記述されている。


        しかし、五人の百姓達は藩主尊信の実筆による文書「江戸行きの命令書」をなぜ?証拠として提示しなかったのか?

        なぜ、高野修理はこれに同行しなかったのか? また、この記述によると、翌年(慶安元年)春、直訴は再開されるが

        これには尊信の長女万姫と五人の同心と草履取り一名が五人の百姓と共に参加する形で記述されている。 しかし、

        「首尾能、相達者・・・」で始まる、「万姫を連れて江戸に訴えでよ。(旧喜連川町の訳)」と記述された、尊信の「江戸行

        きの命令書」の日付けは、あくまで前年の”正保四年八月十日”であり、”慶安元年”ではない。明かに記述中で矛盾

        を起こしている。


        すなわち、最初の直訴となる正保四年の百姓の行動記述において万姫、草履取り、五人の同心が同行していなけれ

        ばならないことになる。 であれば、正保四年(1647年)の松平伊豆守への直訴において、挫折の理由が成立しない。


        さらに、この尊信の実筆による花押入りの「江戸行きの命令書」が本物であるならば、この正保四年八月(1647年)の

        直訴にも、二度目となる翌年の慶安元年(1648年)春の直訴においても、万姫と草履取りと五人の同心だけで完遂で

        きる訳で、五人の百姓が直訴に同行する理由はない。  また、この「江戸行きの命令書」が本当に実在するのなら、

        ここに書かれた五人の者の名前は、五人の百姓ではなく、五人の同心であるほうがいたって自然であったといえる。)



        そして、昭和52年に旧喜連川町が発刊した、喜連川町誌編纂委員会による『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」

        執筆者は、もととなる『喜連川家由縁書』を保有しながら、上記の矛盾のいくつかに気付いてか? 同文書を掲載せず

        に「喜連川騒動の顛末」として、編集し事件の詳細として発表したようです。


        しかし、喜連川尊信の「江戸行きの命令書」の「日付」と「二階堂又市の預り先」の矛盾には気付かなかったということ

        でしょうか?。少なくとも、この矛盾だらけの『喜連川家由縁書』の署名者が事件における五人の元百姓の連判である

        事実がある以上、この文書は明らかな「偽造文書」であると判断しなければなりません。



        さらに、旧喜連川町が発刊した『喜連川町郷土史』の「狂える名君」と『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の内容は、

        この偽造文書である『喜連川家由縁書』を出典としたことだけにとどまらず、さらに執筆者自身が、他の文書史料にあた

        ることで、その矛盾に気付きながら、自分の先祖と思える者達に都合よく、さらなる歪曲を加えて記述した、”あさましき

        歪曲文書”だったということです。



        詳細な解析は『喜連川家由緒書』(筆者訳)を参照ください。この記録が、公的機関である旧喜連川町による正式な記録

        であるとされているのが現状なのです。





        < 追 記 >

        平成20年3月5日、旧喜連川町史編纂委員会をたずね、再度この点を主事さんに伝え、質問したところ、「現在はその件

        は担当外なのでお答えできない。」の逃げの一手で、明治と昭和の記述の筆者を明かすことも嫌ったのです。 そこで、

        旧喜連川町の出版物であれ、現さくら市には、その版権もあり、その記述内容には責任もあるので、本舎の市長さんに

        相談する意思のあることを伝えたところ。『喜連川町史』第三巻資料編3近世の『喜連川家由縁書』の件であれば受け付

        けるとのことでした。  よって、今回作成した『喜連川家由緒書』(筆者訳)を担当の先生方に一読いただけるよう依頼し

        手渡してきました。 そして、同日喜連川家と一色家の菩提寺である龍光寺住職にも、この資料をお渡ししてきました。



      一方、この『及聞秘録』の事件記述の信憑性を高めているのが、本年6月に発刊された新『さくら市』の喜連川町史編纂委員

      会が、筑波大学の先生を初めとする多くの大学の先生方に依頼して編纂した「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」です。  

      この「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」の中には喜連川家の系図として、3種類の系図が収録されています。 その最初

      の系図で明治時代の足利家当主足利聡氏により編纂された『喜連川義氏家譜』の末尾に、この喜連川騒動にかかわる記録

      が残されており、3家老は一色刑部、伊賀金右衛門、柴田久右衛門の三人と記録され『及聞秘録』の記録との相違点は、二

      階堂主殿が家老に含まれていないこと、伊賀金右衛門の存在と彼の妻子の預け先が、一色刑部の長男相木与右衛門と同じ

      青山大膳亮となることで他の事件の経緯や幕府の調査と沙汰、他の家老の妻子達の預け先となった大名など『及聞秘録』

      記録と同じで、事件の御目付が実は「花房勘右衛門と三宅大兵衛の二名」であつたことが記録されています。


      この記録は、江戸市ヶ谷の「月桂寺」(初代藩主足利国朝の姉、「月桂院」の寺であり、喜連川家江戸宿所)からとりよせた

      資料を基に記録されたものであることが『喜連川義氏家譜』の記録から読み取れます。 また、『寛政重修諸家譜』における

      、二階堂主膳助の記録の相違は、やはり『寛政重修諸家譜』は、二階堂政権下に作られた系図ですので、その辺は考慮が

      必要です。 この系図『喜連川義氏家譜』には4代昭氏の相続年が事件のあった慶安元年で貢献人を親族榊原忠次である

      こと、年代や登場人物の他文献との整合性も正しく3代尊信の致仕まで正しく記録されています。  しかし、このことは編纂

      依頼主となる旧喜連川町史編纂委員会の担当者は知らないようです。 この件は、別に後述の<読者への報告>で説明

      することにします。



      また、「フリー百科事典Wikipedia」における喜連川騒動の記事では、『及聞秘録』の存在を故意に、記事中から削除する動き

      が見られ、何度投稿しても削除され、旧喜連川町発表の事件記述を否定する『及聞秘録』を抹殺しようとする、彼等の歴史

      歪曲の意向は明白です。これが「Wikipedia記事の信頼性のなさ」の原因といえます。善良なる他の管理者がこれに気付き、

      是正することを願うのみです。



      先日、当ページを閲覧いただきWikipediaの記事に『及聞秘録』の情報を投稿された方から著作権の件について、確認のご

      連絡をいただきました。 私の要約文の件でしたが、誰が読まれましても高等学校以上の学歴のかたであれば読み順の符号

      や読番?が付けられた、いたって読みやすい『及聞秘録』の記述ですので、私が「要約した文章」と同じようになります。 

      よって、著作権など、主張するつもりもないので、かえってありがたく感謝しております。とお礼を言わせていただきました。 

      今後とも、当ページの「私の文章」においては、皆様に自由にご利用いただければと考えております。  いつでも、ご意見ご

      連絡をお待ちしておりメールアドレスは当ページ末尾に記載させていただいております。



      昨年10月には、梶原家のご子孫様より、梶原平右兵衛門のその後について「『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の記述

      では、ヒーローであったが、あるはずの梶原平右衛門(寛文10年(1670)死去)の墓が喜連川には無く、小山市小薬にあるが、

      知っていることがあれば」と、問い合わせをいただきました。私は、『寛政重修諸家譜』の事件記述では老臣梶原平右衛門と

      行動を共にした老臣高四郎左衛門を「他2名と共に大嶋に流す」という記録があり、『及聞秘録』の記録により、高齢の3家老

      と同じく大嶋で亡くなっているのであれば、喜連川の梶原一族は喜連川領をはなれ、故郷の小薬にもどり、彼の俗名(実名)を

      刻んだ墓を建立したと解釈できることをお伝えしました。



      一方、現在の喜連川町史編纂委員会(係長・主事)の「身内の保身」を目的とした『喜連川町誌』と今年6月に発刊された「『喜

      連川町史』第三巻資料編3近世」の編纂態度には怒りを隠せません。 しかし、現在の喜連川町史編纂委員会に虫食う、明治

      44年発刊『喜連川郷土史』の「狂える名君」・昭和52年発刊の『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の記述により歪曲され

      てきた喜連川騒動の史実を隠そうとする者達の目的としては、今回の編纂では自ら墓穴を掘られたようでもあります。 

      いつまでも、無責任な「おらが町、村主義」の市町村史編纂が許される時代ではないということです。


      今回の「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」の実際の編纂者は、筑波大学、国士舘大学、共立女子大学を始めとする五人の

      先生方ですが、喜連川町史編纂委員会の町担当者の「どこに、何を載せてほしい。 その史料は、すでに何々に載せられてい

      るので、載せる意思はない。」などの意向が繁栄されたことは、この編纂形式から伺えます。  しかし、史料(文書)の中身に

      ついては、各大学の先生方はいっさい歪曲は許さなかったということではなかったか。 いずれ、この先生方のどなたかから、

      正式な研究論文発表などされる日も近いと期待しております。


      先日、梶原さんからご案内のあった鎌倉の梶原記念館へいってきました。 お互い、先祖の姿が歴史の記録に残されている

      ことはありがたく貴重なことであると感じた次第です。