『喜連川義氏家譜』における
        喜連川騒動に関する記録


    喜連川聡氏により編纂された『喜連川義氏家譜』の末尾に記録された喜連川騒動

    に関する記述を下に記する。


    (表紙)「「喜連川義氏家譜」」

    (内表紙)「下野喜連川 喜連川義氏家譜  足利聡氏」

     === 途中 義氏からの系図は略す ===

    八代前右兵衛督尊信代、正保四亥年(1647年)家来騒動仕、

    慶安元子年(1648年)御評定所御裁許ニて家老一年(色)刑部

    ・伊賀金右衛門・柴田久右衛門、右三人大島え遠島、二階堂主

    殿助奥州白川榊原家へ御預、相木与右衛門摂州尼ケ崎青山家

    へ御預、一色妻子とも泉州岸和田岡部家へ御預、伊賀妻子は

    尼崎青山家へ御預、柴田妻子は越後村松家へ御預、右兵衛督

    尊信隠居被 仰付、嫡子梅千代七歳ニて家督、幼年候間、親類

    榊原式部大輔忠次え後見被仰付之由、所替被 仰付候儀は

    無御座候由申伝候得共、騒動之始末之年久敷儀ニ付、旧記

    共虫食ニ相成、巨細ニ相分不申候



    右一(市)ケ谷月桂寺より問合之節、喜連川家来より文書也、

    月桂寺申伝候は、高膳(尊信)乱心せしを家老等をもかくし通し、

    例病気のよし申候て久しく参勤なし、高膳近習の士、高某・梶原某

    、?の咎めありて追放しけれは、此両人 公儀へ申出けるゆへ、

    御目付を遺され、乱心をかくせしにより遠流に処せられしといふ


     続撰系図

    家臣等不正の事ありて一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門、

    大島になかされ、二階堂主殿助を本多能登守に、相木与右衛門を

    青山大膳亮にめし預られ、高膳も請さるに致仕を命せらる趣、尊膳

    (高膳)か狂気せしを家臣等、をしかくして年を経しに、追放されし

    家士か愁訴せるむねありて、御目付花房勘右衛門・三宅大兵衛を

    遺されて見せしめられ、事あらはるゝによってなり


    === 以後、源義家から義氏までの系図部は略す ===


    以上、平成19年6月に発刊された「『喜連川町史』第三巻 史料編3 近世」

    の第三章、第一節の”由緒と格式”の ”一 家系と系譜”に掲載された『喜

    連川義氏家譜』の末尾と続撰系図の先頭部の記録を写した。


    また、この文書『喜連川義氏家譜』は東京大学史科編纂所所蔵文書であり、

    この第三章の執筆を担当された国士舘大学の泉 正人氏は、この史料に

    ついて、以下のように解説している。



    「解 説」

    喜連川家の系図。古河公方足利義氏から喜連川ちか氏までを記す。本文上部に

    源義家から足利義氏に至る略系図と宮原氏の略系図を載せるが、収載にあたっ

    て、その部分は後半にまわした。「内表紙」が本来の表紙。「内表紙」に記されて

    いる足利聡氏は、明治ニ(1869)年四月から同九年九月までの同家当主。 したが

    って、本系図はその時期に作成されたと考えられる。 ちか氏までしか記されてな

    い理由は不明。


  以上、平成19年6月発刊「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」印刷叶ク興社発行 

  さくら市(028-681-1111)の資料(P219〜P220)の記述を記載しました。



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   上記の2つの文書を要約すると以下の通りとなる。

   「八代前の右兵衛督尊信の代、正保四年(1647年)に家来が騒動を起こした。 慶安

   元年(1648年)に御評定所の裁定により家老一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門

   右の三人は大島へ遠島、二階堂主殿助は奥州白川榊原家へ御預、相木与右衛門は

   摂州尼崎青山家へ御預、一色妻子はともに泉州岸和田岡部家へ、伊賀妻子は尼崎

   青山家へ御預、柴田妻子は越後村松家へ御預となり、右兵衛督尊信は隠居を命ぜら

   れ、嫡子梅千代が七歳で家督を相続し、幼年の間の後見には親類である榊原式部

   大輔忠次が命ぜられた。 所領替えはなかった(領地安堵)と申し伝えられている。

   騒動の始末の年から久しい事なので、古い記録は、虫食いになってしまい、詳細までは

   分からないといっていた。」


   右は、市ケ谷の月桂寺に問い合わせたことで、喜連川家に伝わる文書であり、月桂寺

   から申し伝えられたことは、尊信公の乱心を家老達をも隠し通し、普通の病気であると

   申して、久しく(将軍家へ)参勤しないでいた所、尊信の近習の高某と梶原某にお咎め

   があり追放したが、この両人は公儀に訴えたので、御目付を遣わされ、(尊信の)乱心

   を隠した罪により遠島に処せられたという。


     **(尊信を八代前の藩主としているので、この文書は、十一代喜連川ヒロ氏の時

        に書かれたれたと判断できる。また、月桂寺とは、藩祖喜連川国朝・頼氏兄弟

        の姉島子(月桂院)の寺である。つまり、最後の喜連川藩主足利聡氏(としうじ)

        は、事件の詳細を事件に由縁ある下級家臣の家に伝わる『喜連川家由縁書』

        からでなく、事件の史実を知るであろう江戸の藩宿舎(月桂寺)に問い合わせ、

        信憑性のある記録としてここに追加記述したとの判断ができる。)***


   続撰系図


   家臣らに不正の事があったので、一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門は大島に

   流され二階堂主殿助を本多能登守に、相木与右衛門を青山大膳亮にお預けとなり、

   高膳(尊信)も隠居を命じられた趣は、尊膳(尊信)が狂乱したのを家臣等が忍隠して

   いたが、年を経て追放された家士が怨んで訴えたので、御目付の花房勘右衛門と

   三宅大兵衛をつかわされて見せしめられ、事が明らかになったためである。




     **(国士舘大学の泉 正人氏の「解説」により、本来の『喜連川義氏家譜』の

         先頭部に記録されている記述がこの記録と判断できる。よって、この記録

         は喜連川聡氏自信が調査し記述したものではなく、彼が『喜連川義氏家譜』

         の編纂にあたり、その元になった、なんらかの家譜の記録をそのまま写した

         ものと判断でき、事件当時のニ階堂主殿助の預け先を本多能登守と誤記し

         ている理由も理解できる。


         一方、上記の足利聡氏が調査した江戸市ヶ谷の月桂寺の文書では「二階堂

         主殿助奥州白川榊原家へ御預」と正しく記録されていることも確認できる。


         すなわち、『喜連川家由緒書』『及聞秘録』の記録は事件当時ではなく、

         20年以上後の二階堂主殿助の帰参(寛文十一年(1671))より後に記録さ

         れたことが理解できる。

         実は、二階堂主殿助の帰参は、確かに白河城主本多能登守家からの帰参

         です。 しかし、事件判決当時(慶安元年(1648))の白河城主は榊原式部

         大輔忠次です。 

         よって、明治44年発刊の『喜連川郷土史』の「狂える名君」と昭和52年発刊

         の『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の出典となる『喜連川家由緒書』

         多くの矛盾を残した執筆者は、実は連判署名された史実を知る「元百姓の五

         人」ではなかった。 または、本人である場合も含め直訴の存在は事実として

         も、その経緯や結末などには、当人の歪曲記述が疑われる。


         また、昭和52年発刊の『喜連川町誌』に掲載された年表には、天和二年(16

         82年) 「正保年中(1647年)御家騒動に功労のあった百姓五名を引見し賞を

         与える」と記録されています。

         しかし、寛文十一年(1671年)に記述された『喜連川家由緒書』の記録時では

         、「五人の百姓は喜連川尊信の法要時(1668年)に褒美をいただき、一代限り

         の家臣となり、果報者の息子には籾一俵を下された。」として記述されている

         ことに注目したい。


         上記の『喜連川町誌』の年表記録の元となる古文書の記録が、正しいとする

         ならば、ここにおいても、『喜連川家由緒書』は、その矛盾を示すことになる。


         すなわち、『喜連川家由緒書』は、あたかも「五人の元百姓」によって記録さ

         れたことを装った「偽造文書」であることも懸念しなければならないのである。


         また、この『喜連川義氏家譜』の記述では喜連川の地に出向いた御目付の名

         が花房勘右衛と三宅大兵衛と記録されており、事件の由縁により喜連川家に

         仕官できたとする下級家臣(五人の百姓)の家に残された『喜連川家由緒書』

         そして、これを元に執筆された、昭和52年旧喜連川町発刊の『喜連川町誌』

         の「喜連川騒動の顛末」の双方に記述された「御上使三人」の姓名記録と相違

         することも確認できる。


         『喜連川義氏家譜』では、「御目付の花房勘右衛門・三宅大兵衛」の二名であり、

         『喜連川家由縁書』(五人の百姓家の家伝書)では、「甲斐庄喜右衛門様・野々

         山新兵衛様・加ヶ爪弥兵衛様」の三名であり、これをもとに編集された『喜連川

         町誌』昭和52年発刊の「喜連川騒動の顛末」では、「甲斐庄喜右衛門・野々山

         新兵衛・加々見弥太夫」の三名である。


         しかし、なぜ「加々爪弥兵衛」が「加々見弥太夫」となったかは、今となっては

         昭和52年当時の「旧喜連川町史編さん委員会」はなく不明です。 一応、この

         時期の大目付は加賀爪忠澄でしたが、長崎奉行より下級職の人物の後の後

         に大目付を記録してしまうのは無礼で、メチャクチャな人選ですね。


         つまり、「甲斐庄喜右衛門」は、あの楠木正成の子孫で江戸時代の幕府旗本

         (四千石)で幕府御弓組頭を勤めた実在の人物であることは確認できます。

         しかし、任期や生没年はまだ確認できておりません。この頃、甲斐庄家当主

         は歴代で「喜右衛門」を名乗っているのですが万治元年(1660年)では長崎

         奉行であったようです。 また、幕府体制における目付職とは、大目付が老中

         支配下で大名家を対象とした探索方職であるが、目付は若年寄支配下の役職

         で旗本・御家人を対象とした探索方職です。


         つまり、この『喜連川義氏家譜』の記録は当時の幕藩体制における喜連川家

         の位置付けが徳川家の親族扱いではあるが参勤交代を免除された交代寄合

         的な旗本であったことを示していると同時に、この喜連川騒動(1648)により

         喜連川家の位置付が見直され、十万石格の大名扱いとなったのは四代喜連

         川昭氏からであったことも意味してる。

         この辺にも事件の真相が隠されているのかもしれません。つまり、幕府は古河

         の巣鴨御所(足利氏女)と喜連川城主(喜連川頼氏〜喜連川尊信)では幕藩

         体制における扱いが異なっており、特に古河巣鴨御所で足利氏女の孫として

         生まれ育った喜連川尊信が喜連川城主となることで幕府の待遇が下がったと

         した場合、この変化は三代喜連川尊信の心にどうのように映ったのであろう

         か?

         また、三代喜連川尊信の近習として他の家臣より遅く、古河から喜連川に

         従った、古河ではNO01〜NO02であった高修理・梶原等の立場は喜連川で

         は当然にして、下降することは明らかで彼等の心にどのように影響したので

         あろうか?



      話を戻します。筆者は 『喜連川家由緒書』の記述にあたり、事件当時には生存し

      ていない土井利勝や、まだ若年寄であり老中でない酒井雅楽頭(忠清)同様、

      執筆時(寛文十一年)の有名人であったので、最もらしく関係人物に加えてしま

      ったのではなかったか? また、酒井忠勝は、雅楽頭家の分家であり酒井讃岐守

      忠勝が正しいのです。万姫に付添い評定に参加した者がこの辺を誤記することは

      ないでしょうし、当然この件を改ざんする理由もないでしょう。

      さらに、 『喜連川家由緒書』の記述中の


         「尊信公様承応二年(1653年)三月十七日御逝去被遊候ニ付、五人之者退居
         候得共龍光院様え相詰メ、如先例発心仕、御見送り可仕旨達て龍光院様申上
         候得共、未先達て首尾能江戸より能下候□、伊賀殿・一色殿・柴田殿被下置候
         同意之者・同心之内三人有之趣不害(審)ニ存、無沙汰ニ引退候故、数度帰参
         之義被仰付候得共延引致候、此節ニ至相願出ても御延引之由被□仰下候、
         至極御□成御儀ニ御座候得共、私共も是え能出候儀は覚語(悟)相究能出候
         義、□御聞済無御座候は不及是非□、専念寺え能越、致剃髪、龍光院様え
         相詰、御七日中御焼香申上候

                                           関 伊右衛門無心
                                           飯島平左衛門周良
                                           岡田助右衛門宗喜
                                           簗瀬長左衛門全久
                                           金子半左衛門清庵」


      の記録からも現在旧喜連川町編纂委員会が義民としている佐野越後(飯島平左衛

      門)を始めとする上記の五人の百姓は、事件当時から寛文二年(1662年)の帰郷

      までは喜連川家の「おたずね者」(罪人)だったと判断することが妥当と思われる。


      自らが記述したとする『喜連川家由緒書』にて江戸の評定に万姫等と共に参加して

      いたと記録しているが、関係役人の記述に、史実と矛盾する明らかな矛盾があり、

      しかも、事件後の喜連川尊信の葬儀に変装しなければ参列できなかったのである。


      さらに、この寛文二年(1662年)はこの「及聞秘録」の事件記述で記録された一色

      刑部等の三家老と一族が許された、徳川家光の十三回忌の年と一致している。


      そして、『喜連川家由来書』では二階堂又市等直訴派(尊信派)が許された時期を

      寛文十年〜寛文十一年(1670〜1671年)としていることは、注目に値する。


      なぜか、昭和52年に旧喜連川町誌編纂委員会が発刊の『喜連川町誌』の年表で

      は二階堂主殿助の帰参は寛文二年(1662年)となっている。

      この方(執筆者)は、「及聞秘録」の喜連川家の記録を見ていることになります。


      同誌内の事件記述である「喜連川騒動の顛末」の基礎史料は『喜連川家由緒書』

      であったのにである。 大変面白い発見です。