喜連川(古河)一色家のルーツ


           

  一色家は足利一門である。初代室町将軍足利尊氏の4代前の足利泰氏の五男足利公深(宮内卿、足利七郎)が三河国吉良庄の一色郷に住まい、

  以後一色の姓を名乗ったことに始まる。


  公深の嫡子で次男の一色宮内少輔範氏(一色二郎)が初代九州探題を勤める中、長男の一色右馬頭頼行(一色太郎)は菊池氏との戦で戦死。二代

  九州探題は範氏の長男である一色宮内少輔直氏(一色太郎)が勤めた。 また、直氏の弟である範光(丹後一色家祖、後に丹後・山城 ・三河・若狭・

  の4カ国守護)と三男の範房(この末裔は江戸時代には徳川将軍家親族の久松松平家祖)もこれに同行していたという。


  その後、一色直氏(肥後・肥前・筑前・日向の四カ国の守護職)と父一色範氏親子は将軍足利尊氏の長子(庶子)であったが足利直義の養子となり

  南朝方となっていた、足利義冬の乱を鎮めることに困窮し、京に帰還したので、将軍足利尊氏の怒りをかい、関東に下る。


  一色範氏は次男範光と共に京に残るが、直氏は曾祖父である足利泰氏の遺領である武蔵国幸手にて居城、後に将軍足利尊氏の三男で、鎌倉公方

  となっていた足利基氏に仕えたと思われる。


  時を経て、一色直氏の嫡子、一色宮内少輔氏兼の長女が三代鎌倉公方足利満兼の正室となり嫡子持氏を生んだことから、鎌倉公方家における一色

  氏兼の存在は大きくなり、嫡子の満直とともに足利持氏を盛り立てた。 しかし、満直は病弱であったので、後に氏兼の嫡子は直兼(八郎)となり逗子

  葉山の領主として鎌倉公方家の奉公衆筆頭となり、兄弟である幸手領主となった一色長兼・持家親子に一色氏宗も同様に鎌倉公方家奉公衆としての

  地位を築くに至る。


  『鎌倉大草紙』の上杉禅秀の乱(1416年)にある鎌倉公方足利持氏の側近衆の記述に


   「お供は一色兵部大輔、子息左馬助、同左京亮讃州兄弟、掃部助、同左馬助、龍崎尾張守嫡子伊勢守、早川左京亮、同下総守、梶原兄弟、印東

   治郎左衛門尉、新田の一類、田中、木戸将監満範、那波掃部助、島崎大炊助・・・・以下省略」


  との記録がある。一色兵部大輔(一色直兼)、子息左馬助(一色持直)、同左京亮(一色長兼)讃州(讃岐守:一色氏宗or一色満直)兄弟、掃部助(長兼

  の子息:一色刑持家)、同左馬助(満直の子息か氏宗の子息:丹羽氏明)と私見する。(そもそも、同時代の官職名は天皇家・将軍家や公方家への戦貢

  や働き等により、よく変わるもので、この時期の鎌倉一色家の人物達に対比してみた。)


  その後「永享の乱」(1437)にて将軍足利義教(幕府軍)を後ろ盾とした、関東管領上杉憲実との戦に敗れた四代鎌倉公方足利持氏は自害。 主君持氏

  に追従し殉死した一色宮内大輔直兼と嫡子の一色宮内大輔直明・亀乙丸親子(『永享記』にある、鎌倉公方足利持氏の自殺を聞き、殉死した一色親子

  三人)の鎌倉一色家を継いだのが、鎌倉建長寺の僧侶になっていた一色蔵主である。 この一色蔵主とは一色宮内大輔直明の長庶子であり、この一色

  直明とは、実は室町三代将軍足利義満の次男であった、権大納言足利義嗣(母:春日局、生家は鎌倉公方家の執事の上杉家)の嫡男である。


  南北朝廷を北朝に統合し、勘合貿易にて財を成し権力の絶頂期に至り上皇(太上天皇)となった三代将軍足利義満は、嫡男足利義持を四代将軍にして、

  自らは、後小松天皇の後見人となりその後、溺愛する次男足利義嗣を、応永15年(1408年)4月25日に次の天皇に据えるかのごとく、皇居内にて天皇や

  内大臣・貴族達が出席する皇太子同様の元服式を行ない従三位参議とした。 ところが、足利義満は元服式の五日後に急死(毒殺とも)したため義嗣は

  最大の後ろ盾を無くすこととなる。 しかし、足利義嗣は同年7月23日には権中納言、翌年1月5日には正三位、1411年11月21日には従二位 、同月25日

  権大納言、1414年における官位は正二位と兄である四代将軍足利義持の官位を大きく上回り、近臣や朝廷内では足利家の次期当主と見られ、新御所様

  といわれるに至る。


  しかし、応永廿三年(1416年)足利義嗣の妻の生家である先の関東管領上杉禅秀が鎌倉公方足利持氏に謀反を起こして、争い(上杉禅秀の乱)に負け

  自害する。 この時義嗣は出奔し、勝手に髪を丸め出家しており、この件で上杉禅秀との幕府転覆の計略を疑われ、京相国寺にて謹慎させられる。(兄の

  足利義持の計略を恐れたともいわれる。)


  応永廿五年(1418年)一月廿四日、京相国寺内で謹慎中の権大納言足利義嗣は将軍の密命をうけた富樫満成に追討殺害された。(戒名:圓修院殿孝山

  道純大居士)また、足利義嗣の次男嗣俊(二歳)は管領の斯波家に預けられ、後に許され越前に下り鞍谷公方となった。 一方、幕府は足利義嗣の嫡子

  直明(六歳)に対しては鎌倉に流刑とし関東管領の上杉憲基に預けて処刑するよう申し付けた。  しかし、鎌倉公方足利持氏の密名命により、上杉憲基

  は幕府には処刑したと伝え、直明は鎌倉五山(建長寺)にて育てられ、足利家の御門葉である、鎌倉公方家奉公衆筆頭の一色宮内大輔直兼の養子とな

  って元服し、後に一色宮内大輔直明、正四位下となる。


  伏見宮貞成親王(後崇光院、1372年 - 1456年)の日記 である『看聞御記』(宮内庁書陵部保管)に、足利義嗣が撃たれた時、嫡男六歳と次男二歳が

  生母と乳母に抱かれたまま捕らえられた記録があり、嫡男六歳は当初、泉涌寺の喝食として預けられたが、後小松上皇の謀反人の子であるという意向

  により、それが許されなかったとの記録があり、当然当時、天皇家の日記は読むことなどできない。  しかも遠い関東に住む幸手一色氏系譜の記録と

  合致している。


  この幸手一色氏系譜によると、一色直明には五人の子供がいた。 後の六代将軍足利義教と四代鎌倉公方足利持氏の争いである「永享の乱」の時、

  嫡男亀乙丸は父直明と共に鎌倉公方足利持氏の自決を知り武蔵国金沢(現横浜市金沢区)の称名寺にて殉死する。 次に、長女と三男直清・四男其阿

  は鎌倉公方足利持氏の遺児である次男春王丸・三男泰王丸兄弟と共に、後の結城合戦で鎌倉公方方の関東武士団に担がれ、幕府方と戦い結城城に

  籠城するが後に捕らえられ京に護送される。 しかし途中、信州垂井の金蓮寺にて春王丸・泰王丸兄弟は斬首され、二人を弔うべく長女と四男其阿は金

  蓮寺の僧職となり、三男直清はそのまま京に護送されたが三年後に許され後に、元服し一色宮内大輔直清、従五位下を賜り、幕臣として九州に出向して

  いた。


  なお、庶子で長男の蔵主は「永享の乱」より前に出家し、鎌倉建長寺の僧職であった。 この「永享の乱」で滅んだ鎌倉公方家と鎌倉一色家が再興に至

  るには、六代将軍足利義教による幕府の四職家であった一色義貫(三河・若狭・丹後・山城の4カ国守護)の謀殺、次にの土岐持頼の謀殺など、時の将軍

  の独裁的な守護大名支配が間接的に影響したといえる。 つまり、将軍足利義教の次のターゲットは自家であろうと探知した赤松満祐・教康親子が策をめ

  ぐらし、京の自邸に将軍足利義教を招き殺害してしまった。 ために幕府は細川・山名の軍を出兵し赤松親子を討伐し、次の将軍に義勝(9歳)を担いだが、

  病弱のため僅か八ヶ月で死亡した。 よって次弟足利義政(八歳)を八代将軍に担いだので幕府の政権運営は磐石とはいえなかった。


  そこで、幕府は「永享の乱」により主筋となる、鎌倉公方足利持氏を心無くも自害に至らせてしまった関東管領上杉憲実や関東武士団の嘆願もあり、鎮ま

  る様子が見られない関東の安定策として、四代鎌倉公方足利持氏の四男で、当時は信濃に逃れていた成氏(永寿王丸)をして、文安4年(1447年)3月に

  鎌倉公方家の興が成され、成氏は五代鎌倉公方となり8月に鎌倉に帰還した。 よってこの時、足利成氏は、すでに新しい関東管領となっていた上杉憲忠

  の圧倒的な勢力に対抗するために旧鎌倉奉公衆の再編を図るために、旧鎌倉奉公衆筆頭一色宮内大輔直明の長男である鎌倉建長寺僧侶として鎌倉に

  存していた一色蔵主を還俗させたのである。 ついで一色蔵主は朝廷より正式に右衛門佐・従五位下を賜り、五代鎌倉公方足利成氏の奉公衆となり一色

  直兼・直明親子の遺領であった逗子葉山領主となり鎌倉一色家を相続し一色右衛門佐蔵主となる。


  一色蔵主の「蔵主」とは僧侶の職制名であるのかもしれない?また母の生家が三浦氏であったので別名三浦蔵主ともいわれた。つまり、足利成氏は一色

  蔵主を通して先の「永享の乱」において鎌倉府警護の任を、あろうことか放棄し、室町将軍側に寝返った三浦氏を許し、再び鎌倉公方勢力の強化を図った

  ともいえる。


  さらに、鎌倉公方足利成氏による関東管領上杉憲忠の殺害に始まった上杉氏との主従関係の戦いとなる「享徳の乱」(1455)(四代鎌倉公方足利持氏の

  弔い合戦)において、一色右衛門佐蔵主は鎌倉公方の奉公衆等と共に足利成氏を補佐し、鎌倉から古河へ移り古河公方家の宿老(古河城代)となり古河

  公方家領内の大(青)山の地より知行を賜った。 また、他の宿老には彼の実兄となる武蔵国幸手城主であった一色宮内大輔直清と下総国関宿城主であ

  った簗田中務大輔がおり古河公方家勢力圏の中心的要を共に構成した。



  < 古河公方家における幸手・古河一色家の動向 >

  最後の古河公方であった足利義氏期の記録によると、この一色右衛門佐蔵主の子孫である御奉公衆筆頭で古河城代一色右衛門佐氏久の一族は古河

  公方家領内にある「大(青)山」・「かり宿」・「こうたて」・「目吹」の地を拝領していた。また、幸手市発刊『幸手一色氏』に添付されている「一色家系譜」には

  一色直清の嫡子一色直頼の末娘について「安房瀧田城主一色蔵人頭の妻、九郎の母、号梅壽」と記録されている。 安房瀧田領は地図で確認すると一

  目瞭然であり、海路では鎌倉に非常に近い立地であること、さらに鎌倉一色家が鎌倉府の逗子・葉山を領し鎌倉府の水運を三浦氏と共に司っていたこと

  からこの安房瀧田城主一色蔵人頭も鎌倉一色家の人物と推定される。


  つまり、幸手市発刊『幸手一色氏』の「一色氏系譜」から安房瀧田城主一色蔵人頭の妻の実兄が幸手城主一色直朝であることが示されており、ここに鎌倉

  (古河)一色家と幸手一色家の関係が示されている。


  なお、幸手の一色直頼の末娘の記録にある安房瀧田城といえば、「里見八犬伝」で有名な里見氏が安西氏から奪還した城です。 つまり、里見氏が安西

  氏から瀧田城を奪い返したということは、元々は里見氏の城であったことを意味し、その前は一色蔵人頭の城であったが、鎌倉公方足利成氏の古河行き

  により安房瀧田城は里見氏の城となったことを意味するのかもしれない。(里見氏は後の古河公方家の分家となり、小弓御所といわれた足利義明を支えた)


  そもそも下総・上総・安房、さらに三河は鎌倉倒幕前から足利一族の所領であり、里見家は新田庶流で室町期から鎌倉公方家の奉公衆となった家です。 

  よって、五代鎌倉公方足利成氏が領内における奉公衆の領地替えを行ったことが推定される。 また、古河公方足利高基と対立し上総真里谷武田氏や

  安房里見氏を後ろ盾に「小弓公方」といわれた弟の足利義明との国府台合戦などに見られる古河公方家の内部抗争では古河公方家奉公衆の分裂を見る

  が古河一色家・幸手一色など一色姓を名乗る人物は皆、 小弓公方足利義明側に見られないことから、関東における一色家は皆、古河公方足利高基に従

  い古河、幸手領にあったことが考察できる。


  つまり、喜連川一色家祖となる一色右衛門佐蔵主と一色蔵人頭は一時期、安房瀧田も領して鎌倉公方期の五代足利成氏に仕えていたが、成氏の命に

  より古河領内へ領地替えとなっていたことが推定され。享徳三年十二月、鎌倉公方足利成氏は山内上杉の管領上杉憲忠を父持氏の仇として殿中にて

  殺害したことに発する上杉家との抗争(享徳の乱)に敗れ、先に同族として成氏が還俗させた一色右衛門佐蔵主の鎌倉一色家に預けていた古河城に入

  り鎌倉公方勢力圏の中心に地盤を固めたので古河期においても鎌倉(古河)一色家が古河公方家の常にそばに仕えていた側近であったと推定できる。


  このことは後に、古河公方家が後北条氏の政力下となり、古河公方足利晴氏が関宿城にて強制隠居となった時に古河公方足利晴氏と北条氏綱の娘で

  ある側室芳春院との子である足利義氏は幼少であったので北条氏の後見により古河公方家を相続し成人となるまで鎌倉に在していたため、一色右衛門

  佐氏久が古河城代(奉公衆筆頭)であった記録(下之防文書・喜連川文書)の事実も理解できる。 また、古河期代々の古河公方家から発給される書状

  「文書」により古河公方家と奉公衆としての関東の大名や豪族の関係が近年明らかにされつつあるが古河一色家についてはいずれにもその書状の発給

  がない。しかしこのことは、逆に古河一色家が古河公方家の親族であり側近であった位置付けを示すものといえる。


  つまり、古河一色家当主は代々古河公方家の側近であり、常に古河公方のそば近くにおり公方家の家政に係わる相談役であるので代々の古河公方から

  書状が届くことはない。また、平成七年に長く動向が不明でった古河公方家重臣である簗田氏の「簗田家文書」が発表された。簗田氏の居城であった関宿

  城を模写した関宿城博物館を信州に移住していた簗田家末孫が突然訪れたことがきっかけです。この中に簗田家由縁書があり「古河公方足利晴氏の古河

  城を北条氏が囲んだので城内から一色刑部少輔、簗田中務大輔、二階堂が切りだしたが歯が立たず降伏した。」と記録されている。さらに、この合戦を期に

  古河公方足利晴氏は関宿城にて隠居となり、北条氏綱の娘であった側室芳春院が生んだ次男足利義氏が先の「享徳の乱」以来、久しく疎遠であった天皇

  家及び将軍家(十三代足利義輝)の正式な同意のもと元服、正式に関東公方となった時「この元服式は鎌倉鶴ヶ岡八幡宮で行われ千人前後に登る武者揃

  の中で行われ一色刑部少輔、簗田中務大輔、吉良左兵衛佐等がそれぞれ、太刀持ち、水引き、唐傘持ちなどの主要な役目をおこなった。」と記録されてい

  る。古河公方家における古河(喜連川)一色家の動向がまたひとつ明らかにされたといえます。




  < 古河公方家の衰退と喜連川足利家における一色家の動向 >


  足利義氏の死後、娘の足利氏姫期には豊臣秀吉による北条氏征伐により古河一色家の拝領地は失われたが、足利氏女(氏姫)には古河鴻巣御所として

  三百貫の所領が残され一色右衛門佐氏久は御連判衆筆頭として従い(相州文書・喜連川文書を参照)、その後1590年、豊臣秀吉の命により上総小弓御所

  の足利国朝と古河氏女(氏姫)の婚姻が成り足利家が喜連川の地にて所領3200石が加算され、古河の400石と合わせ、都合3600石で再興されさらに「関

  が原合戦」後、徳川家康によりさらに1000石加増され、都合4600石の国主格となり喜連川の姓を名乗るに至った二代喜連川頼氏期には一色右衛門佐(後

  の下野守)氏久の嫡子、一色刑部少輔(後下野守)義久が二代目筆頭家老として仕えた。


  このことは、古河公方家家臣として上総小弓御所の足利国朝を迎えにゆき、さらに喜連川に向かった家臣40名の中に、その後足利家(喜連川家)二代目

  筆頭家老となる一色刑部(義久)の名があることからも理解できる。(里見家文書より)


  また、喜連川家菩提寺である龍光院所蔵文書に慶長七年(1602)二月、二代喜連川家の当主足利頼氏の命にて一色刑部義久、二階堂主殿久□の連署

  による寺領六十石の授渡状が残されている。(筆頭は一色刑部義□、『喜連川町史』第三巻資料編3近世「龍光院寺領宛行状」を参照)


  そして、古河公方家最後の当主であった足利義氏と足利氏女が大檀那となる古河鴻巣の徳源院過去帳(『古河市史』資料編参照)から初代喜連川一色

  家当主となる一色右衛門佐(後下野守)氏久は喜連川期の1601年(慶長六年十二月)に高齢により死去したこととが確認でき、彼の嫡子であり二代喜連

  川一色家の当主となる一色刑部少輔(後下野守)義久は喜連川の龍光寺にある一色家墓所の中央にある彼の墓石より1650年(慶安三年七月十一日)

  に死去したことが確認できる。


  また、古河鴻巣の徳源院過去帳には古河・喜連川関係の人物では古河公方足利義氏期以降の古河公方家当主と喜連川家当主、そして喜連川(古河)

  一色家の当主だけが記録されており、慶長六年十二月(1601年)に死去した一色右衛門佐氏久の嫡孫で喜連川家筆頭家老一色刑部少輔崇貞が慶安

  元年(1648年)12月に3代喜連川尊信公の狂乱の事実を幕府に隠したとして遠流となったことを示す、「明暦二年(1656年)七月伊豆大嶋ニテ逝ス」の記

  録が残る。


  但し、私自身が実際に伊豆大島に渡り、当時の流人に関する公的な関係史料にあたってみたが一色刑部を含め喜連川家陪臣の記録は誰一人としてなく

  、徳川家光期の流人は「御家人四名、計四名」と記録されている。島内で死去した流人に関係する寺の過去帳においても一色刑部の名を確認することは

   出来ませんでした。つまり、この「徳源院過去帳」にある一色刑部の「伊豆大嶋ニテ逝ス」という記録はどうも便宜的な記録と思える。


  また、一色刑部少輔が死去したと記録された明暦二年は、彼の家族が事件により連座し泉州岸和田藩岡部家預かりであった時期にあたり、この時、喜連

  川藩内に存在したのは一色刑部少輔崇貞の実弟一色五郎左衛門崇利だけで、慶安元年の三代尊信公事件で兄崇貞に連座し浪人した。 しかし、二年後

  の慶安三年には根岸と改姓し、甥となる四代喜連川昭氏の側衆として帰参した。(この兄弟の名の「崇」の字は、おそらく同族であり、徳川家康のブレーン

  であった金地院崇伝(一色崇伝)からのものと思われる)


  なお、一色五郎左衛門崇利の帰参理由は同年五月に慶安元年の幕命により隠居し押込中である先代喜連川尊信公と正室の間に次男氏信が生まれた

  こと、そして慶安二年、幕命により四代藩主となった喜連川昭氏(この時は九歳・母は側室で一色刑部の養女)の後見人である榊原式部大輔忠次が翌年

  六月には、近藩である奥州白河城主から遠く西国の播磨姫路城主となることにあったと思われる。つまり、慶安元年の三代尊信公事件の幕府裁定により

  翌年初頭には四代喜連川家当主となった幼い喜連川昭氏公(九歳)を補佐し、同時に喜連川家内を取りまとめ得る人物がいなくなるので、将来において

  新たな御家騒動が懸念される出来事であった。 


  実際の所、『喜連川家家譜』では四代喜連川昭氏公と弟氏信公の生母は同じと記録されている。しかし、喜連川足利家の過去帳が示す事実は四代昭氏

  公の生母「欣浄院殿」は九年前の昭氏公を生んだ一ヶ月後に死去している。 このことは、喜連川家は家の安泰を重視して、氏信公が正室の子であること

  を機密としていたことを示すものといえる。 当然、幕命により押込隠居中の先代尊信公と正室を説得し、家臣達を取りまとめ、この機密を保持させることが

  できる人物が望まれた。そこで、幕府が任命した四代喜連川昭氏公の後見人である白河藩主榊原式部大輔忠次公の知恵により(おそらく幕府老中達も

  黙認)、喜連川藩の燐藩である烏山藩の根岸の地にて浪人中であった四代喜連川昭氏公の大叔父であり、本来ならば喜連川足利家筆頭家老の家格と

  なる一色五郎左衛門を帰参させるために、まだ刑期中である「一色」の姓を「根岸」に改姓させることで、幕府が制定して間もない武家諸法度を便宜上で

  はあるが犯すことなく、これを実現したと考察すれば理解しやすい。


  実際に喜連川の龍光寺にある喜連川足利家の墓所前にある一色家の墓所内の正面かつ中央にある最大かつ最古の墓石は二代喜連川家筆頭家老一

  色下野守義久(前刑部少輔であり大嶋に流刑となった一色刑部少輔崇貞と浪人した実弟一色五郎左衛門崇利の実父)の墓である。そして、墓石の右面

  には「二代頼氏公直臣、大禅勘平胤栄」と彫られており、正面には「□□院長岳宗久居士」、左面には「慶安三年七月十一日死去」と刻まれている。


  さらに、「小林家代々日記」(『喜連川町史』第三巻資料編3近世に収蔵された古文書)には一色五郎左衛門は浪人中に「山本勘平(治)」を名乗ったと

  記録されている。 つまり、一色五郎左衛門こと根岸五郎左衛門は慶安三年に父である一色下野守(前刑部少輔)義久が死去した時に墓石を建立し、

  「大禅の心により勘平の胤栄よ」という子孫繁栄の願文を刻んでいる。この一色家の墓所は根岸五郎左衛門(後に丹右衛門と改名)を初代として代々の

  根岸丹右衛門家(実は喜連川一色家)当主により守られてきたことを示している。


  また古河徳源院においても、その時々の大檀那となる足利家当主と共に一色家当主は弔われており、五代鎌倉公方足利成氏以来、歴代足利家当主の

  いずれもが「古河(喜連川)一色家は足利一族であり鎌倉一色家の嫡流であり、五代鎌倉公方足利成氏が臨済宗の鎌倉建長寺の僧侶であった一色蔵主

  を還俗させて再興した家である。」ということを知っていたと理解でき、このことにより古河公方家・喜連川家とつながる足利家と喜連川(古河)一色家の関

  係が確認できる。


  さらに、喜連川一色家の墓所の実物写真をクリックして拡大して参照ください。

  古河公方家奉公衆筆頭から御連判衆筆頭、そして初代喜連川家筆頭家老を勤めた一色右衛門佐(後の下野守)氏久、二代喜連川家筆頭家老一色下野

  守(前は刑部少輔)義久三代喜連川家筆頭家老一色刑部少輔崇貞と嫡子の一色左京の三人の戒名のいずれにも、それぞれがおもに仕えた足利家当主

  の戒名の文字が使われている。(また、古河徳源院過去帳にて明暦二年七月に伊豆大嶋で死去と記録された一色刑部の戒名と喜連川龍光寺の一色家

  の墓にある一色刑部少輔崇貞の墓石に刻まれた戒名及び死去日も見事に一致している。)


  まず、足利義氏は「香雲院殿長山周善大居士」で氏姫は「徳源院殿慈峰晃大居士」二人に仕えた一色下野守(古河では右衛門佐)は「松香院圭峰周玄

  居士」であり二人の足利家当主の戒名から「香」「峰」「周」の3文字が使われている。次に一色右衛門佐氏久の嫡子、一色下野守(前は刑部少輔)義久

  は「□□院長岳宗久居士」であり「長」「岳」の二文字とその使われている場所に注目したい。


  足利国朝は「法常院殿珠山良公大居士」、足利頼氏は「大樹院殿涼山陰公大居士」であり喜連川尊信は「瑞芳院殿昌山桂公大居士」そして、喜連川昭

  氏は「令徳院殿孝山恭公大居士」で一色氏久の嫡孫一色刑部崇貞は「翠竹院松山宗貞居士」であり、足利家男子を現す「山」が特定の場所で使われて

  いる。また、五代喜連川(足利)氏春の戒名は「太常院殿天山道公大居士」であり一色刑部崇貞の嫡子である一色左京の戒名は「乾利院道山松公居士」

  である。五代喜連川氏春の戒名から「山」「道」「公」の文字が使われ、そして父刑部の「松」の一字が使われている。そして、このことは代々の古河・喜連

  川の足利家当主が古河・喜連川の一色家当主の死をいかに惜しんだかを現すものといえます。


  この一色刑部少輔と左京親子の喜連川騒動事件後の動向を記録し現存する古文書には、『喜連川義氏家譜』『及聞秘録』がある。 これらによると、

  事件後に高齢の一色刑部少輔崇貞は流地大嶋にて病死、嫡子一色左京・三男石塔八郎は泉州岸和田城主岡部美濃守に長男相木与右衛門は摂州

  尼崎城主青山大膳亮にそれぞれ預けられ徳川家光の十三回忌の時(事件評定の14〜15年後)に許され、岡崎藩主水野監物忠善家(徳川家康の生母

  於大の生家であり清和源氏の末孫家の一つ)に二百人扶持(1500〜2500石格)客分扱いで仰呼され三河岡崎の一色家として再興された。しかし、当主

  一色左京に男子なく断絶となったと記録される。さらに、兄弟である相木与右衛門と一色(石塔)八郎等も同家に仕えたと記録されてあることから彼等に

  も嫡子が無かったものと判断される。



  また、事件に関する記録として東京大学史科編纂所の大日本史科DBには次の網文が記録されている。


  慶安1年12月22日2条

  「是より先、喜連川藩主喜連川尊信家臣、二階堂主膳助等、高四郎左衛門等、事相訴、

  是日、幕府其罪を断し、尊信に致仕を命し、四郎左衛門等を大嶋に流す」


  出典として「人見私記」・「万年記」・「慶安日記増補」・「慶延略記(寛明事跡録)」・「寛政重修諸家譜」・「足利家譜(喜連川)」『及聞秘録』があげられ

  ている。


  1977年に旧喜連川町から発刊された「喜連川町誌」の記述とは、正反対の記述であり、喜連川騒動に関する記述として、幕府は、喜連川尊信に隠居

  を命じ、直訴事件を起こした高野修理(高四郎左衛門)梶原平右衛門(孫次郎)等を伊豆大嶋に流したのである。 また、徳川幕府の公式文書であり、

  将軍家光の日記である「徳川実紀」には、直接この喜連川騒動についての記述は残されていないが、関係する記述として



  慶安元年7月3日条

  「喜連川尊信が病に伏したので老臣が手配し、松平忠次の家医、関ト養に治療せしむ」


  と、事件の事実関係を調査する幕府御上使3名が江戸を発つ慶安元年7月11日の8日前の出来事として記録されている。


  つまり、三代将軍徳川家光が喜連川尊信の病状をさぐるべく老中に手配させ、喜連川尊信の叔父にあたり、徳川家親族でもある白河藩主松平(榊原)

  忠次の家医を喜連川に派遣させ確認していたことが記録されており、この日記の日付けから喜連川藩筆頭家老一色刑部少輔崇貞等の三家老に懸け

  られていた藩政横専容疑は幕府の評定前(幕府目付の派遣前)にすでに晴れていたことを裏つけるものである。


  一色刑部少輔崇貞が幕府に罰せられたのは、藩主狂乱による喜連川(足利)家を取潰しの難から救うためやむなく行った行為であり幕府老中から榊原

  忠次への連書状
からも喜連川藩主喜連川尊信の狂乱を幕府に隠した罪であったことが理解できる。そして、先に上げた東京大学史科編纂所にて記録

  された喜連川騒動の網文の正当性も、この「徳川実紀」の記述により確信できる。よって、この喜連川騒動事件そのものは「徳川実紀」に記録されてい

  ないことから幕府の機密事項であった可能性さえ伺える。



  < その他の一色家の動向 >

  次に、先にも述べたが一色直明の次男とされる一色直清(宮内大輔、従五位下)の流れが幸手城主であり古河御奉公衆であったが、古河公方家が

  後北条家の勢力下に入った足利義氏期より栗橋城に入った北条氏照に幸手城を明け渡し上総千葉の木野崎城に移り古河公方家を離れ「関が原合

  戦」の時には徳川家康に付き旗本(交代寄合?)となり旧領であった幸手の地に所領を賜った一色宮内大輔直朝の流れの幸手一色家がある。


  しかし、この旗本幸手一色家は江戸時代初頭に男子がとだえ、女系の孫により再興され現在に至っています。(幸手市発刊『幸手一色氏』の「一色家

  系譜」を参照。)


  一方、一色長兼の長男一色刑部少輔持家は室町将軍家と関東(鎌倉)公方家との戦い(永享の乱)により三河国に逃れ国主丹後一色氏の保護の元

  に一色城主となるが戦国の例に似て家臣波多野全慶の下克上により滅亡する。また、一色氏兼の三男氏宗の流に、徳川家康に大名家となった丹羽

  家がある。

  そして、先にも記述したが三河一色家の嫡流で九州探題職を離れ京に戻り、その後鎌倉に下った一色直氏の弟一色範光は兄に代わり直接室町将軍

  家に仕え、赤松家・山名家京極家と並び四職となり丹後・若狭・三河の3国を領し一番の繁栄を見せた丹後一色家がある。(最盛期の一色丹後守義貫

  は美濃・伊勢を含む五カ国守護大名となった。)この丹後一色家当主は代々「左京大夫」を名に使うようです。


  さらに、丹後一色家は家祖一色範光の孫、一色満範の子である一色丹後守義貫と一色若狭守持範の二家に分れた。若狭一色家(持範系)からは最後

  の室町将軍足利義明に細川藤孝や明智光秀と共に仕え室町将軍家の滅亡後は長く細川家の客人となって戦国期を過ごしていた一色藤長の流れには

  江戸幕府旗本となった一色範勝があり、この一色藤長の従兄弟に江戸幕府の基礎を築き武家諸法度の草案を作った「黒衣の宰相」ともいわれた金地

  院崇伝がおり、この2家も先述の通りで江戸時代初期に数代で断絶した。


  そして、一色丹後守義貫の丹後一色家は「永亨の乱」で敗れた鎌倉方である一色長兼の子の一色刑部大輔持家(吾妻鏡で一色宮内大輔直兼の甥と

  して記録されている)を三河国にて匿うなどその権力を恐れた6代将軍足利義教に所領を削減された。そして安土桃山時代、党首一色義員は織田信長

  に付き、信長の馬揃えに参加していることが確認できが、「本能寺の変」の後、豊臣(羽柴)秀吉が細川藤孝に命じ、義員の長男一色義定を殺され丹後

  一色家は滅亡したとされる。

  しかし、一色義員の次男一色治兵衛は細川藤孝の手を逃れ近江高島にある近江源氏の京極家を頼りその後、近江膳所藩に仕えて矢橋の船代官とな

  った。後に、徳川家親藩となる本多康俊の移封の時に一色治兵衛の子である一色清蔵(船代官)と一色太郎左衛門(神官)は芝田に改姓し二家の芝田

  家が現在に至っている。(草津市矢橋、正高寺の古文書より)


  さらに、三男の一色右馬三郎重之は、天正8年(1580年)祖父である河野通泰(村上通泰)との縁により、子の重直、重次(6歳の双子)、家臣赤澤某、伊藤

  嶋之助、佐和小十郎等十余名を連れ、伊予国宇摩郡へ渡った。 そして、新居郡の旗頭であった高峠城主(高外木城・たかとき)石川通清の食客となり、

  新居郡萩生村に居住。その後、桑村郡旦ノ上村へ移住。 そして、旦ノ上村の青野六太夫只正の娘を重次の嫁に迎え縁者となる。天正18年(1590年)、

  摂津麻田藩青木一重の代官となっていた重之は、命により古城に居た周敷郡北条村の地頭越智勘左衛門を討って移り住み、そこを「三ツ屋」と称し、右

  馬三郎重之の子孫は三津屋村・周布村・壬生川村・明理川村の四か村で大庄屋を務め、子孫も現在に至っている。


  また、丹後一色家から分かれた甲斐一色の庶流として金丸家・土屋家・秋山家が現在に至っている。(甲斐源氏の金丸家に養子に入りこの金丸家から

  土屋・秋山家が分かれる)




  一色範氏の三男範房系(久松松平家の元に久松家・知多一色家の二系統がある。 次回更新予定。)




  < 江戸時代の一色五郎左衛門家こと根岸丹右衛門家の事 >

  一色五郎左衛門崇利は、兄一色刑部少輔崇貞に連座して一時期浪人し山本勘平(治)を名乗っていた。慶安三年幕命にて隠居中の先代喜連川尊信公

  と正室の間に幼い四代藩主喜連川昭氏公九歳(母側室)の弟となる氏信公が生まれた。 しかし、幼い四代昭氏公の後見人である白河城主榊原忠次は

  翌年六月には播磨姫路城主となるよう幕命が下りていた。


  そこで、一色五郎左衛門崇利に喜連川家より帰参命令が下った。 しかし、先の事件により一色家は公的には断絶であるため一色の姓を改姓し隣藩で

  ある烏山領内の根岸の地に住まっていたので根岸五郎左衛門崇利とし幕命により隠居中の先代喜連川尊信公(30歳)と4代喜連川左兵衛督昭氏公(9

  歳)に仕えた。喜連川右衛門督氏信(昭氏の弟)の側衆として仕えた時には、根岸丹右衛門連談と改名した。


  その後、本来五代となるべき四代喜連川昭氏の弟氏信は二十歳で早死、藩主昭氏の死去(72歳)のころには、足利(喜連川)家の親族でありながら喜

  連川藩御用達として、上町の兄一色刑部少輔の家老屋敷と下町の旧自宅、さらに仲町にあった同じく兄である旧山野金右衛門屋敷を買取るなど、都合

  3軒の宿屋を始め根岸丹右衛門を名乗り町人となる。 屋号は柏屋で子孫は現在に至る。(『喜連川町史』第三巻資料編3近世に掲載された当時の町役

  の記録『小林家代々日記』参照)


  この小林家の先祖は、旧喜連川領主塩谷家の家臣、小林出羽守であり『喜連川町史』第三巻資料編3近世に掲載された、足利家が喜連川領内に入った

  時百姓や町人となって領内に残った、旧塩谷家家臣45名を書き上げた文書『長百姓姓名書上』にて確認できる。


  代々の根岸丹右衛門家当主が町役になった記録はない。 根岸丹右衛門家当主は訳けあって宿商人ではあるが代々の喜連川家当主も認める正当な

  足利一門であり、喜連川足利家筆頭家老の家格となる喜連川一色家嫡流家となる。ゆえに、家格が低い町奉行職の直接の管理下となる町役となること

  は当然にして免除された無役の商家であった。


  江戸時代の喜連川の街は多々火災にみまわれ古記も少ないが、幸いにして根岸丹右衛門家の檀那である「欣浄院専念寺」には天保年間からの過去帳

  が残っており、根岸丹右衛門や勇(裕)次郎の名が確認でき、屋号は柏屋ですので、柏屋丹右衛門・勇次郎の名で天保年間には新田開発なども多々行

  っていた。(「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」平成19年6月発刊の第4章村の生活の四「新田開発」を参照)


  代々の根岸丹右衛門家の墓は事件後の家老であった逸見家・黒駒家と同じ通称「欣浄院専念寺」にあり事件後の家老黒駒七左衛門家の墓と並んであり

  二軒隣りが幕末の頃、二階堂家の失脚にともない家老となった逸見家の墓となる。


  三代喜連川尊信の側室「欣浄院」が生んだ男子が四代喜連川昭氏であるが『喜連川郷土史』(明治44年喜連川町発刊)の「狂える名君」では、「欣浄院」

  は城代家老一色刑部の娘であると記述されており、一色五郎左衛門尉家(根岸丹右衛門家)の墓は姪となる四代喜連川昭氏の生母「欣浄院殿」の墓の

  側で弔われていたことになる。





 < 徳川家旗本 根岸肥前守鎮衛家の事 >

  また、これは仮説レベルですが、この喜連川騒動事件の約100年後の喜連川の根岸丹右衛門家と江戸時代に実在した名奉行とされている根岸肥前守

  鎮衛(江戸南町奉行)の関係である。


  これは、1800年前後の話であり貧乏御家人安生家の三男鎮衛(22歳)がわずか150俵扶持たらずの幕府御家人熊谷支族の根岸家を末期相続し、異例

  の出世を遂げ1000石の大身旗本になった経緯ですが、異常である。 しかし、根岸(旧姓安生)鎮衛(しずもり・やすもり)が裕福な商家からの養子である

  との記録から考えるならば、この商家とは喜連川家の筆頭家老で足利家一族となる一色刑部少輔の実弟一色五郎左衛門家こと、喜連川の根岸丹右衛

  門家
からの養子であると仮定することで理解できる。


  根岸(旧姓安生)鎮衛の場合、貧乏御家人家の末期相続ですので通常は小普請組に組み入れられ同心などの下級職に就くのが普通である。 しかし、

  根岸(旧姓安生)鎮衛は勘定所の御勘定役(中級幕臣)からという異例のスタートであった。その5年後には評定所留役(現在の最高裁予審判事)になり、

  さらに5年後には勘定組頭、10年後の安永五年(1776)には勘定吟味役、なんと天明四年(1784)には佐渡奉行、天明七年(1787)には勘定奉行寛政10

  年(1798)から文化12年(1815)までの16年間を江戸南町奉行を勤め、1000石取りの旗本となり、異例な出世を成した人物である。文化十二年(1815)の

  根岸肥前守鎮衛の狂歌に、彼の出目を示す注目すべき地方方言が見とれます。


   「御加恩をうんといただく五百石 八十の翁の力見てたべ」


  これは、茨城弁(茨城県南部)か栃木弁(栃木県北部)ですね。喜連川領は栃木県の北部にあり、隣は馬頭領で水戸領(茨城県)と接しています。

  さらにこの時代にありながら失政により辞任に追い込まれた田沼意次や松平定信の派閥中に根岸鎮衛が無かったことが彼の異常な出世の流れから伺

  え、同時に、このことは幕府の高家旗本・外様大名となる足利一族や徳川将軍家からの覚えが高い喜連川一色家の末孫としての根岸鎮衛なればこそ

  可能な出世であり、当然本人の力量もあったゆえのことと思われる。


  また、鎮衛の孫となる根岸肥後守衛奮も勘定奉行・江戸南町奉行・講武所奉行を務めている。これらの役職の役高は3000石であることから、この頃に

  はおそらく三千石クラスの旗本となっていたと思われる。 あくまで、この根岸肥前守鎮衛(従五位下)の件は根岸姓つながりでの私の無責任な仮説で

  あり、なんら証拠となる文書もないよた話ではあるが、気になる歴史上の人物である。




  < 喜連川根岸丹右衛門家の家紋の事 >

  また、喜連川に残った一色五郎左衛門家(根岸丹右衛門家)の家紋はなぜか「立ち沢潟」です。このことは長年疑問視していたことでした。


  これは喜連川一色家本家となる一色左京の墓石が喜連川龍光寺にて、伊豆大島に配流となり事件の五年後には高齢と病により死去した父親である

  喜連川家筆頭家老であった一色刑部少輔崇貞(根岸丹右衛門の実兄)と共にあることに関連すると考えている。つまり、岡崎藩主水野監物忠善は一

  色左京を預先であった泉州岸和田藩岡部家(今川義元の旧家臣家)から仰呼し、一色家祖である足利公深が住まった三河一色郷を含む地でもあった

  三河岡崎藩内にて喜連川一色家を再興したが、一色左京が嫡子不在にて死去し断絶になった時に立てられた墓であったと仮説をたてると理解できる。


  水野監物家の家紋が「立ち沢潟」であることに関係しているのではないか?と考える。 一色左京は水野監物家から同じ清和源氏の家系であり源氏の

  嫡流である喜連川足利家の親族として客分扱いで二百人扶持の待遇を受け再興されていたのであれば、当然岡崎藩の一色左京と叔父である喜連川

  の根岸丹右衛門(一色五郎左衛門)との間で情報交流があり、一色家関連の書状は水野家からの書状として喜連川家に送られたはずで、その後、根岸

  家に届けられるというルートが考えられる。 当然にしてこの場合に使用される文書箱には水野家の家紋である「立ち沢潟」が使われていたはずである。


  そして、幕府の公的な扱いでは喜連川一色家は慶安元年の事件をもって断絶であり以後、喜連川には一色姓を名乗る家は無いことになっていることから

  一色五郎左衛門崇利は根岸(連談)丹右衛門崇利と改名しており、この頃から家紋も「立ち沢潟」を主に使用するようになったと考える。


  また、生前の一色左京は自分の病気等により岡崎の喜連川一色家の断絶が予想される中、喜連川の根岸丹右衛門家と、その後のことも連絡しあってい

  たことでしょう。しかしその後、岡崎の喜連川一色家が断絶に至ったことで当時の喜連川の根岸丹右衛門家にも男子は一人であり、岡崎の喜連川一色家

  本家に養子出す男子がいなかったことも汲み取れる。


  当然、根岸丹右衛門家当主が岡崎の喜連川一色家本家に養子に入るという選択もあったと思われるが、このことは二百人扶持(1500石〜2500石取り)

  の他家の武家であるより、藩主喜連川家の親族(当時は四代藩主喜連川昭氏は甥または従兄弟)である武家でありながら、喜連川藩の主産業である

  宿屋を三軒営む根岸丹右衛門家の当主であった方が身分的に自由であり経済的にも裕福であったと推察する。


  注)この時代の大名家の主要な収入源は一般には米であったが、喜連川家の場合は特別であり、宿場からの収入が主要な収入源であった。喜連川家

    は石高五千石(新田開発等により実質は一万石)で公的には旗本並みの微高ではあったが旧足利将軍家滅亡後の足利家嫡流家として御所号が許

    され幕府の諸役や諸事業負担金の供出も免除されており参勤交代の任も免除され十万石以上の大名格(国主格)であった。 ゆえに喜連川家当主が

    江戸に出向くのは徳川将軍家への正月の挨拶ぐらいであったので御所様は通年喜連川に在するという特殊な大名家である。 さらに、奥州街道が喜

    連川家の門前を通るため、東北地方からの諸大名家は参勤交代のたびの御所様詣から逃れることは不義となる。しかも諸藩の経済事情からの節約

    的な振る舞いもできないので喜連川宿は特別な宿場となり、宿泊業は喜連川家の別格の収入源となるドル箱的な主要産業であった。


            



  < 平安〜鎌倉時代の足利家の動向 >

  最後に、河内源氏源義家の嫡子は本来、次男義国であったが京において義国は公家と争いになり焼き討ち事件を起こし、本領である下野足利に

  帰り足利姓を名乗った。そこで、父義家は弟の義忠を嫡子としたのである。しかしながら公的な歴史の示す通り、後に鎌倉の弟義忠流の源頼朝の

  流れは北条家の策謀により滅亡したので河内源氏の嫡流は兄義国の源姓足利家となった。


  そして、鎌倉幕府における北条政権下の足利義氏は北条得宗家の娘を正室として北条得宗家を補佐する形で次のターゲットとなる源氏の嫡流足利

  家を北条政権から守りつつ逆にその所領を全国に増やす中で北条得宗家の策謀により淘汰されていった多くの有力御家人の子孫を家臣として吸収

  していったのである。よって、足利義氏の嫡子は長男である三河吉良家祖となる長氏ではなく北条得宗家の娘との間に生まれた泰氏となり、以後足

  利家の嫡子は北条家の娘を正室とし、その長子が足利家の嫡子となった。


  しかし、後の足利高氏・直義の母は足利家家臣の藤原流上杉家の出であるが北条家の娘との間の嫡子高義が早死したので結果、後に鎌倉幕府を

  倒し、室町将軍となる高氏(尊氏)が嫡子となったのである。



  また、俗にいわれる先の「源平合戦」であるが、実は、関西と関東の桓武平氏同士の戦いであったといえる。つまり、鎌倉幕府の中枢に執権職を置き、

  これを累代世襲した北条氏こそ、実は関東に下った桓武平氏本家の敵流であり、北条時子を介して父である北条時政のもくろみどおりの鎌倉幕府が

  完成したともいえる。 よって、現在全国に点在する「平家の落人部落」の存在であるがすくなくとも関東以北のものには疑問を感じるといわざるおえ

  ない。すなわち日本は源平合戦以後であっても北条氏による平家王国であった。


  そして、源(足利)義国の長男で新田の祖となった義重と足利家を継いだ次男義康の件であるが「源平合戦」を期に命運が別れたといえる。当初、源

  義家の長男源義国(足利家)はどちら付かずであったが、時を置いて次男源義忠系の頼朝が鎌倉において滞留し関東における勢力を確定したので、

  足利家は長男義重を京の平家側に付け、次男足利義康を鎌倉方に付けることで、その存続をはかった。結果として、源平合戦は源氏(鎌倉方)の勝利

  となったので平家側に立った長男義重の子孫(新田家)は鎌倉期以後無官となり、官位もなく衰退していったのである。


                                                                               平成19年10月20日記入
                                                                               平成22年 7月10日更新
                                                                               平成29年11月15日更新


  新事実、ご意見等ございましたら下記までご連絡いただければ幸いです。

                                                                     321-2522
                                                                     栃木県日光市鬼怒川温泉大原270番地
                                                                      喜連川一色家子孫     根岸 剛弥



********************************************