喜連川一色家の墓


   喜連川一色家の墓は、旧喜連川町の龍光寺内、喜連川足利家墓所の正門前に同家

   筆頭家老家の家格を表すべく位地に存在する。 そして、一色家の墓の一番左側の

   墓石には一色刑部(少輔崇貞)と一色左京の名前と戒名が刻まれています。 

   最初の写真の中央の観音様の後ろの塔婆には根岸家が明治40年頃、満洲の大連

   に移住してから現在でも供養していただいている一色家の家臣であった、石崎家の

   当主の塔婆が見える。 お手持ちのパソコンにて拡大して確認できると思います。


   また、この一色家の墓所で一番中心となる墓は下のサムネイルの右側上段の写真

   中央の「聖観音菩薩像」で右裏の側面には「五郎左衛門崇利室」と刻まれています。

   さらに正面左側には寛文十二年五月(1672年)と刻まれている。 なぜか、通常当主

   の墓のあるべき中央の場所に設置されている。 

   どうも、この墓石の設置場所は本来の位置から動かされているようである。とはいえ、

   喜連川家三代目筆頭家老の一色刑部少輔崇貞が伊豆大嶋に流刑となったために、

   慶安元年(1648)の喜連川騒動事件の後に、実弟一色五郎左衛門崇利がこの一色家

   墓所を建立していたことを意味する墓石である。


   さらに、下のサムネイル上段の左から二番目の写真中央にある細川九曜紋の付いた

   一番大きい墓ですが、この墓の正面に彫られた戒名は「□□院長岳宗久居士」で、

   左側面には「慶安三年年七月十一日」(1650年)と彫られており、右面には「二代頼氏

   公直臣」と、その隣には「大禅勘平胤栄」と彫られている。 大禅勘平胤栄の文字です

   が、これは願文で慶安元年(1648年)の事件で御家断絶となってしまった「喜連川一色

   家の勘平の胤(子孫)よ栄えよ」という意味でしょう。


   この墓石も本来の位置から移動されたことがわかる。 本来の設置場所は中央の「聖

   観音菩薩像」(一色五郎左衛門崇利室の墓石)の場所であったことはその死去年と不

   自然な寄せ集めの配置からうかがえる。


   「古河市史」の徳源院過去帳に足利国朝公と共に一色下野守(前刑部少輔)氏久の

   慶長六年十二月(1601年)の死去が記録されているので、この墓石は慶安元年に大嶋

   に流刑になった喜連川家三代筆頭家老一色刑部少輔崇貞の実父となる、喜連川家二

   代筆頭家老一色下野守(前刑部少輔)義久の墓と判断できる。 そして、この墓石には、

   なんと死去年が「慶安三年年七月十一日」(1650年)と彫られているので、三代尊信公

   事件(喜連川騒動)がは慶安元年ですので、この二年後以降に作られた墓であることを

   示している。 また、願文にある「勘平」とは一色下野守義久の三男であり、一色刑部少

   輔崇貞の実弟である、一色五郎左衛門崇利こと根岸丹右衛門崇利のことであることを

   示している。


   栃木県さくら市が発刊した「『喜連川町史』第三巻 資料偏3 近世」に編纂された古文書

   「小林家代々日記」には、尊信公の代に乱があり、時の家老一色殿の実弟であり分門で

   ある根岸丹右衛門こと一色五郎左衛門が浪人中に「山本勘平」と名乗っていたとの記録

   が残されています。 

   つまり、この一色家墓所は一色刑部少輔崇貞とその家族達が喜連川の地を去った後に

   実弟である一色五郎左衛門崇利こと、初代根岸丹右衛門崇利(連談(達))が喜連川家

   に帰参してから建立した墓所であり、累代の根岸丹右衛門家が明治40年頃に、喜連川

   の家屋敷と土地財産を現金化し、隣国である中国の満洲の大連に渡るに至るまで、供養

   していた墓所であることを示す墓石でもある。


   また、この一色下野守(前刑部少輔)義久の右隣の墓が正室の墓で、その隣が側室の墓

   、その前の小さい自然石の墓が、一色五郎左衛門崇利こと初代根岸丹右衛門崇利の墓

   であり、墓石に刻まれた戒名は「□□院法暖紹心居士」、死去年は延宝七年(1679)十二

   月廿六日とある。

   さらに、喜連川城下の人別帳である古文書「小林家代々日記」の記録によると、根岸丹右

   衛門が事件後に四代喜連川昭氏公に仕えたが町人となり、また根岸連談(達)として右衛

   門督様(喜連川昭氏公の実弟、喜連川氏信公(母は正室))に仕え、またその後、城下に

   て兄一色刑部屋敷、山野金右衛門屋敷をもって宿屋三軒を始めたことを示す記録がある。

   (小林家とは旧塩谷家家臣で足利家の入領により武家から商人となり宿屋を始め代々町役

   を勤めた旧武家です。)


   根岸丹右衛門の墓は四代喜連川昭氏公の生母「欣浄院殿」の菩提寺である松林山欣浄院

   専念寺にある。 事件後に幕命にて一代家老家老となった三家老の一人、黒駒七左衛門家

   の墓の隣で、「欣浄院殿」の墓所に近い上位の位置にある。  武士をやめた理由は寛文十

   一年(1672)に帰参した二階堂家との軋轢を懸念し、喜連川足利家の親族でありながら喜連

   川家の主要産業である宿屋の主人という特殊な立場を選んだ。(根岸丹右衛門家は永代無

   役の特権商家であった。)



   同時に明治44年の旧喜連川町が発刊した『喜連川町郷土史』の「狂える名君」の記述に

   始まる「一色刑部を筆頭とする三人の家老達が三代藩主喜連川尊信公を牢に押篭める

   暴挙を働き藩政を牛耳っていたところ、藩主に忠誠をつくした尊信派家臣と五人の由緒あ

   る百姓の活躍により、藩主尊信は開放され藩政を取り戻した。一方、三人の家老達は幕府

   に咎められ流罪となり御家断絶となった。」とされ、悪徳筆頭老家のはずの一色家の墓が

   なぜか、事件後に続々と形成されていた事実を武家社会を良くご存知の方々がどう理解

   できたのか? 大変興味深い。 

   つまり、明治44年、『喜連川町郷土史』の「狂える名君」の執筆者はこの矛盾に困窮したが

   喜連川騒動事件の藩主を三代喜連川尊信公ではなく、四代喜連川昭氏公とすることで、

   事件の史観を故意に歪めていたのである。


   以後の同町関係者は長くこの史観に振りまわされている。昭和52年発刊『喜連川町誌』の

   「喜連川騒動の顛末」の筆者でさえ四代昭氏公ではなく三代尊信公期の事件と修正する

   ことで、明治44年『喜連川町郷土史』の「狂える名君」の史観は守られている。 まるで同誌

   発刊にあたり史料提供者(明治以降も同町に残った有力町民)が保有する武勇伝「百姓家

   の家伝書」を重視するあまり事件の真実に踏み込むことはタブーとされてきたようである。


   時は明治を迎え、大名行列が無くなった喜連川の地に残った者は百姓と零細な万屋商人

   と職人や工夫、そして役場職員となった下級家臣(豪農の次男三男で厩番六石取の子孫

   など)ぐらいであったことがこの傾向を強めたのでしょう。


   約三十石取でも、家族四人と下人一人を使えば、ギリギリの生活であった、武家の扶持の

   ことを知れば、喜連川家の下級家臣の実状を知ることは簡単なことである。




  <<上記写真は、サムネイルですのでPC画面いっぱいに拡大してご確認できます。>>


   一色刑部少輔崇貞と嫡子一色左京の墓は最初の写真の左側の時代を思わせる屋根付き

   の墓石で、一つの墓石の左面と正面に、戒名と生前の名前が同時に彫られている。 

   そして、この龍光寺は鎌倉の臨済宗円覚寺の分寺であり、以下は墓石に刻まれた二人の

   戒名です。


    「翠竹院松山宗貞居士」 一色刑部少輔崇貞・・・「山」の場所は、足利家男子の慣習、

    死去年は明暦二年七月(1656年)事件の8年後


    「乾利院道山松公居士」 一色左京・・・「公」の場所も、足利家男子の慣習、死去年

    天和三年四月十一日(1683年)事件の35年後


   一色左京の戒名の「松」は父刑部の戒名から一字、「道山公」の三文字は五代藩主

   喜連川氏春公の戒名「太常院殿天山道公大居士」からでしょうか? 「山」「峰」「岳」

   「巌」の山に類する字は足利家累代当主が将軍足利尊氏の代から使われています。

   また、室町三代将軍足利義満の戒名は「鹿苑院殿天山道義公大居士」で、ここでも

   「山」「道」「公」の三文字が使用されています。 

   つまり、喜連川一色家の祖である一色宮内大輔直明の実父は、この足利義満の次男

   足利義嗣で、長男の四代将軍足利義持の計略により殺害されたことが関係している

   のかもしれない。(喜連川一色家のルーツを参照)


   なお、足利義嗣の戒名は「圓修院孝山道純公居士」で、ここでも「山」「道」「公」の三文字

   が使用されています。



   江戸時代の古文書『及聞秘録』によると、一色左京は事件の十五年後、岡崎藩水野監物

   家にて再興され客分扱い百人扶持(石高で2000〜2500石)で招呼されたと記録されてい

   る。 しかし、その後、嫡子無しで断絶と記録される。 岡崎藩水野監物家とは徳川家康の

   生母「於大の方」の生家であり一色左京は家臣ではなく「客分」として招呼されている。

   (戒名の特徴は足利家の戒名を参照)いずれにせよ、一色刑部と左京の名前を後世に残

   すことにより、この墓石を建立した人物の事件に対する、2人への思いは十分感じ取れる

   ものです。 そして、この墓石の建立を許した人物はいったい誰であったのか?


   言えることは事件により断絶となり、一色家の同族である金地院崇伝が関わり幕府が制定

   した「武家諸法度」により藩内には存在しえない喜連川一色家の墓を喜連川家家臣に事件

   後から358年後の現代でも維持させられる人物だということでしょう。 しかも、主君の墓の

   前にある一色家の墓の中に、堂々と「喜連川町誌(昭和52年版)」と「喜連川町史(明治44

   年版)」では謀反人とされた、一色刑部と左京親子の墓石を建立できる人物であり、しかも

   実名を刻むことを望んだ人物。 そして、なんとしても一色家の墓を喜連川家の墓の正門の

   位置に残したいと思う人物です。



   また、喜連川足利家の菩提寺はもう一つあります。 古河鴻巣の徳源院で、古河公方家

   の足利義氏と、その娘、足利氏姫の菩提寺です。 残念ながら、この寺は明治時代の初

   めには廃寺となり、現在、この寺の過去帳は、当時の檀家の総代の家が保管してあり、

   その内容は『古河市史』に収録されている古河鴻巣徳源院過去帳を確認ください。 

   なんと、この過去帳には一色下野守(一色右衛門佐氏久)と一色刑部少輔崇貞の二名が

   古河公方足利義氏以降の足利家歴代藩主と共に記録されています。  しかも足利家と

   一色家以外の他に記録された人物には喜連川藩士はだれ一人としていないのです。 

   この過去帳の一色右衛門佐氏久の項では

   「熱田大明神 松香院圭峰周玄居士 慶長六年(1601)寅丑十二月 一色下野守 」 

   と初代喜連川藩主喜連川(足利)国朝公と同じページに記録されている。そして、一色

   刑部の項には、「歓喜佛 翠竹院松山宗貞居士 一色刑部 明暦二年(1656)□申七月

   、伊豆大島にて逝す」と、四代喜連川藩主喜連川昭氏公と同じページに記録されています。


   明暦二年とは喜連川騒動事件の評定があった慶安元年の八年後ですので、誰の命により

   喜連川から遠くはなれた古河鴻巣の徳源院でも二人は供養されたのでしょうか? つまり、

   一色右衛門佐氏久を供養したのは初代国朝公であり、喜連川騒動事件当時の藩主であっ

   た3代喜連川足利尊信公は事件の5年後の承應二年三月十七日に死去しており、一色刑

   部はその3年後に大嶋にて死去しているので、正徳三年十一月十一日に死去した4代喜

   連川昭氏公の命により古河鴻巣の徳源院と喜連川の龍光寺の二つの寺で供養され墓石

   が建立されたと判断するのが自然です。  そして、一色左京を弔ったのは四代藩主喜連

   川昭氏公と五代藩主喜連川氏春公であることも、一色左京の戒名から推定されます。


   当時の二代に渡る喜連川藩主である昭氏公と氏春公が一色刑部と左京親子の供養を行

   い、足利家菩提寺である喜連川龍光寺の喜連川家歴代藩主の墓の前に二人の墓石を

   建立したことをふまえると、明治44年と昭和52年の旧喜連川町役場にて発刊された『喜連

   川郷土史』の「狂える名君」と『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」において、「一色刑

   部等三家老が逆臣であり、幕府に訴え出た者達を忠臣であった」とした、その記述内容を

   根本から疑わざるおえない。


   そして、『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の執筆者は誰であったのか? なぜ、

   喜連川(足利)家の菩提寺である、古河鴻巣の徳源院と喜連川の龍光寺に残された誰に

   でも検証できる明らかな事実を、あえて黙殺してまで、事件で「幕府に訴え出た者達の

   ほうが忠臣であった。」と歪曲・改ざんまでして、執筆者は市町村発行の公的文献で広く

   公示したかったのか?


   事件のヒーローとされる高野修理と直訴を護衛した5人の同心の1人、高塩清左衛門の

   子孫と思われる人物名の2人が同誌の編纂委員会メンバー紹介に文化財保護審議会

   委員として記録されております。 もっとも、同町に在住し、この件に詳しい方がこの執筆

   に関わることは町史作成の人選として自然なことではあったとは思います。しかしながら、

   執筆者の先祖がどちら側の人物であったかにより、記述内容が歪曲されることは世の常

   ではあるが、「公的な史実の執筆に関する中立性」は、なかったといえます。
    『喜連川家由縁書』(筆者訳)参照


   そして、喜連川足利家臣団の家禄&役責取り決めのスライドショウ3枚目を参照していた

   だければ伺いしれることです。


   当時、同じく文化財保護審議委員であり、この調査審議に関わった、故小林正治氏は

   古文書「小林家代々日記」を無視され編さん途中で辞職しております。 この小林氏の

   先祖は、小林出羽守です。  このことは、平成19年3月発刊で6月に発売された、『喜

   連川町史』第三巻資料編3近世に掲載された、旧塩谷家家臣で、喜連川領内に残り、

   百姓や城下の町人となった者、45名の姓名を喜連川藩の役人が書き上げ、筆頭家老

   の一色下野守義久に提出した「長百姓姓名書上」にて確認できます。


   さくら市の現新喜連川誌編さん委員の方に、このことを伝えたが、一色家の墓の存在

   さえ知らなかったという疑わしい回答でした。



   一方、幕末の維新の頃、当時の国老、二階堂親子は、主君である12代喜連川縄氏(水戸

   徳川斉昭の実子&最後の将軍徳川慶喜の弟)が会津藩主と結託していると維新軍に通報

   し、「調査の結果その事実はない」として斬首・さらし首となっております。



    慶応四戊辰年八月十三日(第二の喜連川騒動、二階堂事件)

    二階堂主殿輔(28才)    さらし首・・(切腹は許されなかった)
      同 量山(54才)      死罪
      同 邦之助(18才)     死罪
    小貫  貫作(41才)      死罪
         将監(50才)      死罪
         源五郎(27才)     死罪


   喜連川足利家(関東公方家古河・小弓の男系子孫)は、一色刑部の孫でもあった4代喜連

   川昭氏で絶え、以後13代に渡り他家から養子として藩主を向かえ入れています。 ゆえに、

   喜連川騒動以後、一色家のいない喜連川藩の藩政は、長々と二階堂家により握られてい

   たが、この時は現将軍徳川慶喜の実弟が養子に入り、藩主となったので、これまでのよう

   に藩政の実権を握ることができず、事に及んだのではなかろうか。 この二階堂親子の先祖

   は、喜連川騒動の評定において、直訴に関与していたが、当時15歳であった為、罪は軽減

   され白河藩(榊原(松平)忠次)おあずけとなった二階堂又市(主殿助)なのである。 


   二階堂又市は、事件の21年後、4代喜連川昭氏の時、喜連川藩に帰参を許されその後、

   一色家に次ぐ家格により国老になったようですが、彼の子孫も二階堂家の汚点となる喜

   連川騒動事件をそのまま伝承したとは思えません。


   史実を知る4代喜連川昭氏には、男子はなく実弟氏信を養子にしましたが20歳で死去し、

   昭氏の死去年齢は73歳と長寿でした。 結果、養子の実弟氏信は早死となり、代わった

   5代藩主喜連川氏春は同じ古河公方家から分かれた宮原御所、後の幕府旗本宮原家

   からの養子です。


   これにより、史実を知る3代尊信と一色家の血もひく4代昭氏と氏信も、皆いなくなったの

   で、以後、喜連川藩の藩主は皆、他家からの養子となり、これらの藩主の実像は皆、二

   階堂家と喜連川足利家の存在を必要とする幕府の傀儡状態にあった。 これを好機とし

   て、二階堂家にとって汚点となる、喜連川騒動を歪曲し「義勇伝」として伝承するのが自然

   であり、藩内の家臣達も保身のため、史実はタブーとすることは、当時の藩内の力関係か

   ら考慮しても当然の成り行きです。


   そして、長きに渡り喜連川藩の藩政を握ってきた二階堂家にとって、喜連川足利家の墓所

   の正門前にある、足利家の親族「一色家の墓」は、長くにがにがしい存在ではあったが、

   3〜4代の足利家嫡流である先君が建立した一色刑部と左京親子の石塔もあり、旧家臣達

   も皆知ることで、さすがに撤去にまでには至れなかったのではなかろうか。


   また、3代尊信の側室(一色刑部少輔崇貞の娘)であり、4代昭氏の生母が埋葬された

   専念寺は、江戸時代中期以降2度の原因不明の火災にて、本殿は当初の姿を残しており

   ません。 そして、この喜連川足利家側室婦女子の墓は、昭和60年代に現在の和尚が、

   敷地内の一箇所に十数名分の石塔がみなバラバラに散乱していたものを、供養していた

   ものです。 しかも、散乱した墓石には足利家に関係しない墓石も含まれていたと聞いて

   おり、喜連川足利家側室婦女子の墓所がいかなる理由からか、破棄されていたことは

   事実である。  最後に埋葬された喜連川足利家の側室婦女子は、文久2年8月19日

   (1862年)に死去した「浄光院殿照誉専心得念大姉」でしたので、これ以降の所業である

   ことが理解出来ます。


   そして、天保十三年(1842年)の喜連川足利家臣団の家禄&役責取り決めにより、この

   ような所業をとがめられることもない人物は国老格である二階堂家と明治以降の人物

   以外では考えられないのである。4代喜連川昭氏以降、他家からの養子により喜連川

   家は、その家系が保たれて来たので、代々の養子藩主は、国老二階堂家からその知識

   を知らされないかぎり、喜連川足利家側室婦女子の墓の存在を知るすべがないのであ

   り、国老二階堂家にとって何事も都合が良い喜連川藩であったことも伺えます。 平成

   16年、この発見により専念寺はその正式名称「欣浄院」の名が解り、奇跡的に残った

   僅かな古記を解析することでその由来が判明したのである。


   専念寺に最初に埋葬された一色刑部の娘であり、3代尊信の側室であり、4代昭氏の

   生母である側室の戒名は「欣浄院殿深誉妙心大姉」で、死去年は寛永19年12月2日

   (1642年)と刻まれております。


   すなわち、二階堂家にとって都合の悪い喜連川騒動に関連する資料や史跡の隠滅行為

   が、二階堂家の息のかかった者か明治以降の人物により数度に渡り行われたといえる

   のである。 そして、寛永20年の喜連川足利家の館の火災と専念寺の2度に渡る火災は

   、いずれも原因不明とされているが、これも喜連川騒動事件の真相を示す、二階堂家に

   とって都合の悪い証拠の隠滅行為ではなかったか。


   3代喜連川足利尊信を隠居に追い込んだ、先祖(二階堂主膳助又市)の行為は、代々

   国老格を維持したい二階堂家当主にとって都合が悪い事件であり。1648年の喜連川

   騒動事件において、「3代喜連川尊信は「狂人」ではなく、二階堂又市(主殿助)と高野

   修理等により助けだされ、1652年の3代喜連川尊信の死去により、4代昭氏が家督を

   相続した。」と史実を歪曲・改ざんをすることは、二階堂家が代々主家に対して忠臣の家

   であったことにつながるのである。


   そもそも、藩主の館の火災と藩主側室子女の菩提寺である専念寺の2度に渡る火災が

   原因不明のままであり、4代昭氏の出生日が記録されていないこと自体が疑わしいので

   ある。

   しかし、4代昭氏の出生年は、喜連川における資料では、不明であったが、『寛政重修諸

   家譜』の幕府の喜連川騒動事件にかかわる記録と喜連川足利家側室婦女子の墓所の

   発見により、3代尊信(30歳)の隠居と4代昭氏(7歳)の家督相続の事実が判明したこと

   は幸いである。 すなわち、喜連川町に残された資料により記述された昭和52年発刊『喜

   連川町誌』の年表の示す、”1652年の4代昭氏の家督相続の記録”は歪曲・改ざんであっ

   たのである。



   また、「喜連川騒動の顛末」の基礎史料『喜連川家由緒書』では

     「右兵衛督尊信公、寛永七年(1630)に古河より御引キ移被遊、同拾八年(1641)

      ニ御上意之由、干時御荒キ御生得故、一色殿・柴田殿・伊賀殿、主意計略ヲ

      もって御一間ヲ存ひ御押込申上候、同拾九年(1642)左兵衛督様(昭氏)御誕生

      被遊候」


   < 私 訳 >

   右兵衛督尊信公は寛永七年(1630)に古河よりお引き移りになられました。同拾八年

   (1641)に、ご上意ということで、生来、気性が荒い方でしたので、一色殿・柴田殿・伊賀

   殿は主意計略をもって一間(一部屋)設けて御押籠め申し上げました。同拾九年(1642)

   に左兵衛督様(昭氏)がご誕生になられました。




     「□□梅千代様御七歳之時(1649年)左兵衛督昭氏公と奉申上候、江戸表え御登

      被遊候、御供ニハ大草四郎右衛門様、御老中御廻被遊、□□尊信公様ニは

      江戸御参ン府ハ不被遊候、是より□□昭氏公様御代ニ相成」


   < 私 訳 >

   梅千代様が御七歳の時、左兵衛督昭氏公と申し上げました。江戸表へお登りになられて、

   御共には大草四郎右衛門様で御老中に挨拶に廻られました。(この節より?)尊信公様は

   江戸の御参府することはなく、これより(四代?)昭氏公様の御代に相(あい)なりました。


   とあり、「喜連川騒動の顛末」の執筆者は4代昭氏(7歳)の家督相続の事実を知りながら

   、あえて記述しなかったのである。



              メインページ 喜連川騒動における一考察

***************************************