天保十三年 喜連川足利家臣(古河・上総の名跡)の家禄&役責の取り決め


     昔勲功之旧家数多有之、譜代柱石臣毛又少候処、追々天晴之名家断絶ニ?今総仁名家?称者
     二階堂、逸見二家不過長嘆至也・・・・・・・・・
     訳) 昔は勲功の旧家が多数あったが、.譜代の柱石となる家臣は少なくなってしまった。追々天晴の名家は断絶
         となり、今では総じて名家と称せる者は二階堂、逸見の二家にすぎず長く嘆くに至っている。・・・・
         *一色家・伊賀家・柴田家・高(こうの)家・梶原家は事件により断絶となり存在しないことがわかります。
           同時に、この資料は喜連川の高野家が古河でも上総でもなく、まして高(こうの)修理とはなんら関係ない
           家であることがわかります。しかし「高野修理」と誤記された百姓家の歪曲文書(喜連川御家)には同情しますが。