7  <<四代喜連川昭氏生母の墓の存在>>

      事件当時の三代喜連川尊信の正室(那須資景の娘)には、事件当時男子

      が生まれず、万姫とその他3女だけであった。

      一方、側室(一色刑部の養女)は男子を生んで、喜連川騒動事件の6年前

      に死去している。  この男子が梅千代丸で後の4代藩主喜連川左兵衛督

      昭氏なのである。  4代喜連川昭氏の生母(一色刑部の養女)の墓は、旧

      喜連川町内の松林山欣浄院専念寺にあり、戒名は「欣浄院殿深誉妙心大

      姉」です。 墓石に刻まれた死去年は、寛永19年(1642)12月2日です。


      つまり、4代喜連川昭氏を生んで二ヶ月で死んだことになります。産後の日立

      ちが悪かったのでしょうか。 この墓は、喜連川家側室婦女子の墓として、

      以後十数名の側室子女が供養されており現在の足利家(旧喜連川により整備

      されております。 

      なお、この通称「専念寺」は、元は慈覚大師(798〜864年)の作った阿弥陀如来

      像を安置した草堂があり、檀家のない廃寺であったのを慶長元年(1596年)喜連

      川藩士である佐野甲斐守、逸見山城守(元小弓公方家家臣)、黒駒蔵人の3人

      が2代喜連川藩主足利頼氏公の許可を得て創建した寺です。

      寛永19年12月(1642年)に3代藩主尊信の側室で4代藩主昭氏の生母欣浄院

      が埋葬された時には、藩主喜連川尊信が寺領15石と3反3 の境内を下付し横

      8間、縦7間の本堂と43坪の庫裡、その他観音堂を建立したと、寺の古記に残さ

      れている。 そして、これは想定(仮説)となりますが彼女の急で思いがけない、

      4代喜連川昭氏の出産にともなう死去と正室との関係が3代喜連川尊信の精神

      状態に悪影響を及ぼした可能性が疑われます。


      また翌年、寛永20年(1643年)には喜連川(倉ヶ崎)城の一部焼失の事実が『喜

      連川町誌』の年表で確認できます。この出火原因も気になります。山城ですので

      もらい火の可能性は否定されます。 そして、三代喜連川尊信は、これが原因と

      なり山下に屋形を作り移り住んだと記録されています。