喜連川町郷土史の「狂える名君」明治44年編

                               喜連川騒動における一考察(メイン)へ

   「国乱れ忠臣出ず」

   戦国の遺風が未だ残っていた正保四年、全国諸藩の基礎固まらないとき、名藩
   喜連川家にもお家騒動がもちあがり五人の義民が出たことがある。

   「狂える名君」四代昭氏のときである。

   正保といえば三代将軍家家光の頃であり、初代家康によって全国統一が行われ
   たとはいえ、真にこれが完成したのは家光になってからである。

   ために当時は殺伐の気風が盛んであり、主家よりの立退や謀反などの事件が多
   かった。

   一色刑部、伊賀金右工門等は、こうした世の風潮に乗った喜連川藩お家騒動の
   立役者であった。

   お家乗っ取りの策謀は他藩の例にもれず。

   一色刑部の娘を昭氏の側室としたのがきっかけで、正室との間の勢力争いに発展
   した。

   昭氏は凡庸の主ではない。

   早くも一色、伊賀一味の動静に不藩(信?)を抱き更にその心底を見抜くため発狂
   を粧った。

   主君の発狂は彼等の望むところ、直ちにこれを館の奥室に幽閉した。偽発狂とは
   知らずして。

   日夜座敷牢に奇声を発しながら、臣下の動静を探る。

   若し普通の状態で彼等の陰謀の中に居るならば人心未だ定らぬ時に、どんな加担
   者が出るとも限らず殺気の危険にさらされることを思った。

   これが発狂となれば家督譲渡は勿論、当然に死をも待たれるであろう。

   ここに、一味の成功感があり、危険な謀略をくわだてする必要もなくなるわけである。

   乱臣あれば忠臣もある。

   狂う主君の傍を離れず常にその護身刀となっていたのは高野修理であった。

   高野は一色一味の悪事を早くも見抜き、その障壁となって、粧い狂う主君昭氏を守り
   抜こうとしたが、その忠臣ですら、やがては真も狂人であると信ずるようになった。

   山科における大石内蔵之助にも似て「敵をあざむくには先ず味方をあざむく」の戦法
   をとったわけである。

   城下の士民また憂愁に閉ざされた。

   やがて一味の陰謀は、遂に妾腹による家督相続の計画に発展し、これを幕府に
   願い出ることになった。

   狂える昭氏は更に癒えそうにも思われない。

   或夜、悲歎の高野修理は身を犠牲にして主君の平癒を祈るべく、狂う昭氏を前に
   して至誠を天地の神に誓い、刀逆手に腹に突き立てようとした。

   瞬間!

   「修理早まるなッ」

   昭氏の口からほとばしったこの言葉に、修理は電光にうたれたように我にかえった。

   涙がとめどもなく頬を伝わる。・・・・・・・・。

   これがまこと狂える殿様の言葉だろうか?

   修理はすべてを察した。

   「ああ、狂える名君よ」と。

   ここの親にしてこの子ありとか。

   領民の中にも賢者はいた。

   平三郎村関伊右ェ門、葛城村飯島平左ェ門、金子覚右ェ門、小入村岡田助右ェ門、
   乙畑村梁瀬太郎右ェ門の五氏は密かに高野修理と謀って江戸に上がり老中松平
   伊豆守にこれを訴えた。

   時の老中は金星三人、仁の酒井忠勝、勇の阿部忠秋に対し智の松平伊豆守信綱
   であっただけに、老中直訴の無礼は無礼として五名を酒井、杉浦、曽根、伊丹氏へ
   それぞれ御預けとし、その是非を裁いた。

   姦臣一色刑部等が、伊豆大島に流罪となったのはそれから間もなくであった。

   五名の帰国に際して伊豆守は、

   「百姓としてこの大任を全うしたことは、誠に奇特の至りである。昔頼朝の世、これ
   に似た忠節の氏があったが、其後未だこれを聞かない。永く歴史に記して伝えたい。

   汝等に奉仕の心あるなら各各百石を与えよう。 帰国したら再び来るがよい」

   とその功を賞し、且つ証書を与えて余後を約した。

   その帰り途、利根川の渡し舟の中で、五人は相談の結果、

   「このような書を子孫に伝えると、恐らく子孫は利のために主家を離れることになる
   だろう。 むしろ河の中に捨てて後日のわざわいを絶っべきだ」

   としてこれを河に流して喜連川に帰り、再び農事をもって仕え、それぞれ齢を全うし
   たとゆう。

   昭氏は事の明白となったため、即日病気は平癒して、義民の至誠に報ゆるのに
   仁政をもってした。

   10代藩主照(?)氏また名君であり、貧民の救済に力を用い「民1人を飢えさせる
   ことは我が罪である」と飢饉の際には倉庫の貯蔵を空にしてもこれを救ったと伝え
   られ、学問、武芸を盛んにし、用水堀の開通にも力を用いるなど、喜連川中興の英
   王といわれたが、度々領内も巡回しては老を養い孝を賞することも多く、この事件
   の義民の子孫に木杯を賞与したといわれている。


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   以上、一字一句違わないように、記述した。

   しかし、10代藩主の名前が読めず名前を変換できない、「ひろうじ」と読むらしいの
   だが?

   この、「狂える名君」には、喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」で登場する、万姫
   や五人の同心と草履取りの十三郎らは、登場しない。

   また、主君からの御直書(命令書)の存在は記されていない。

   この「狂える名君」では、藩主は、4代昭氏の話になっている。

   昭和52年に発刊された、改訂版である喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」では
   3代尊信の時の事件に修正されている。

   そして、当時の編さん委員会による資料調査の結果、修正されたのであるから
   3代尊信が正しいと言うことである。

   私も、当時の一色刑部の年齢を考慮して、年表など時系列的に考証するならば、
   この点につては賛成である。

   そして、この「狂える名君」の記述通り、正室と側室の勢力争いが3代藩主尊信の
   偽発狂の始まりであり、途中側室の世継ぎ誕生と妾腹(側室腹)による家督相続と
   言う経過があるのなら。

   この世継ぎが4代昭氏公であるので、事件当時の昭氏公は7歳となり、事件の5年
   前(寛永19年12月2日)に刑部の娘である側室は昭氏公の実弟信氏を生んで死去
   していることになり、3代尊氏公の偽発狂は少なくとも7年以上、続けられたことにな
   る。

   あまりにも、気の長い3代尊信の偽発狂である。

   しかし、本当の発狂であれば、現代医学において明かされた精神分裂症の初期〜
   中期の症状を考慮するならばかなり現実性を帯びてくる話である。

   すなわち、この精神分裂症の病状の進行は正常期と狂気期が定期的に繰り返され
   るのだが、その正常期の期間が年々短縮されて行き、最後には完全な狂気状態の
   終期を向かえ数年で脳神経を犯され死に至る病気なのである。

   現在は、特効薬としての抗鬱剤、精神安定剤が開発されており、規則正しい生活と
   精神の安定を心がけ、この薬を毎日飲み続けていれば、正常な状態を一生維持で
   きるようになっております。

   現在、年々入院を必要とする精神病患者数が減っているのはこのためです。

   一方、時代の変化にともない精神内科等の初期〜中期症状の患者を対象とした、
   この特効薬を患者の症状に合せ処方量を調整し提供する病院は増加しております。

   現代医学があれば、本来この事件は発生しなかったのではなかろうか。

   しかし、喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」では、尊信公が正常であり、尊信派が
   忠義の家臣であったと言う説を継続させるために、この事件を1547年夏〜1548年
   7月15日までの約1年間の事件に強制的に修正したようで、年数的な矛盾が発生
   しております。

   この事件の幕府の評定時期は変えられないので苦労の跡が伺えます。

   しかも、4代昭氏公が、7才で喜連川藩主となったことを考慮すると、3代尊信は
   この事件により、武家諸法度に従い、幕府により「藩政不行き届き」の件で正式に
   隠居させられたことになります。

   尊信派の直訴事件が原因で3代藩主尊信は隠居させられたのであるから、尊信派
   が忠義の臣であり、一色派が逆臣であるとゆうこの「狂える名君」の話の筋は、歴史
   の勝組みである二階堂家により作られたものであり、この尊信派の行為は、喜連川
   足利家の親族一色刑部を追放し、3代尊信に代わって幼君4代昭氏公を補助するか
   たちで、藩政乗っ取り取りを成功させたものではなかったのか?

   また、「妾腹による藩政乗っ取り」という表現が本文中にあるが、そもそも江戸時代の
   大名家に、この様な表現や考え方があったのでしょうか?疑問に思えます。

   少なくとも江戸時代までは、嫡子の存在は、大名や旗本家にとって死活問題であり、
   嫡子がなく当主が死去した場合、特に江戸時代前期までは、即刻改易&取り潰しが
   あたりまえなのです。

   大名家や旗本家当主の死去後の養子縁組が認められたのは、徳川吉宗の時代以
   降のはずです。

   いくら正妻であっても嫡子を産まないことには、嫡子を産んだ側室の立場は、正室に
   勝るのは当然のことで、まして家臣が嫡子が側室の子であるので軽視することはな
   いのです。

   そして、正室と側室がこれにより不仲となる例は、多々あることでしたが、嫡子を生ん
   だ側室と当主が不仲であることは、まずなく、寛永19年12月2日に次男氏信を生んで
   死去した側室(筆頭家老一色刑部の娘)を埋葬した専念寺への寄与は多大なもので
   あり、3代尊信の心が伺えるものです。

   よって、3代尊信と筆頭家老一色刑部が不仲であることも、鎌倉公方足利持氏以来、
   喜連川足利家に至っても、奉公衆筆頭、筆頭家老格であり、足利家親族である一色
   家の一色刑部がこれ以上出世することもなく、「藩政乗っ取り」の表現すら不自然な
   のである。

   この一色家は、関が原の戦い時に喜連川足利家を離れ、徳川家に仕えたならば、
   あの吉良家にさえ劣らない名家であり、2000〜3000石格の大身旗本か交代寄合に
   もなれた家格でありながら、代々の足利家への忠義心により、微禄であっても喜連
   川足利家に仕え通した、一色右衛門佐氏久の嫡子がこの一色刑部なのである。

   彼が出世を望むなら、喜連川足利家を離れ、徳川将軍家に仕える方が現実的では
   なかったか。

   「藩政乗っ取り」などという表現や考えを持てる人物は、嫡子の生めない正室と藩政
   乗っ取りをたくらむに値する出世を望める家格の家臣以外には考えられないのであ
   る。

   喜連川町史(明治44年)の「狂える名君」は喜連川町誌(昭和52年)より先に発行さ
   れたものであり、当時の主君の名前を間違えるなど、資料を調査して書かれた物で
   はなく、結果的に事件後の喜連川藩の藩政を手中にした、二階堂家などの逆臣が、
   保身の為に歪曲した伝承記を参考に執筆された文献であることが伺えます。

   伝承とゆう物は、ストーリーは意外に正しく伝えられるが、登場人物名が替わってし
   まったり、ストーリー中の負け組みを異常に悪役に仕立ててしまう傾向があります。

   当然、勝組みが作った話である以上、自分達の不都合な事実はカットして、いかに
   もヒーローであったかのごとく表現し、作品の目的をとげようとす傾向は、ゆがめませ
   ん。

   主君に対する忠義の心をあおるストーリーですので、これを必要とした時であり天保
   8年大阪で起き、最も江戸幕府を震えあがらせた事件、大阪奉行所のOB同心大塩
   平八郎の乱の後あたりが怪しく思える。

   この事件の真実は、事の真実や善悪よりも賄賂を優先した大阪奉行のやりかたは、
   徳川幕府の未来を揺るがすものであり、これをゆるせなかった下級幕臣大塩平八郎
   の余りにも実直な徳川家への忠誠心が起こした事件なのだが、十分な事前調査を怠
   った幕府の対面もあり、この辺の情報は諸藩には、知らされていないはずです。

   諸藩では、この事件に驚き、単純に藩内の忠誠心、忠義心を奨励し、このような事件
   が再発することを恐れたのではなかったか?

   天保十三年の喜連川足利家臣団の家禄&役責取り決めの制定を考えると、一色家
   になんの気兼ねのいらないこの時期に「狂える名君」の伝承物語が作られたと思わ
   れる。

   当然、二階堂家に都合よく作られた伝承物語であることは自然なことであり、史実を
   語る藩内の関係資料の破棄と歪曲も自由であったはずである。

   そして、「喜連川騒動の顛末」のメインキャラ万姫が登場しないのは、なぜだろうか?

   主君の娘であり、史実であればはずせないキャラであると思うが?

   すなわち、喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」の万姫と5人の同心と草履取りは
   喜連川町誌にて追加されたキャラであり信憑性がかなり怪しいものであるといえる
   のである。

   また、.「狂える名君」の本分中の記述で、「100石」とゆう表現があります。

   これも、多大な扶持であり、江戸時代の人間ならこの意味は、十分に理解できる
   内容であり、このような話にだまされることはないと考えられます。

   喜連川藩においても、100石という扶持は、多大なものであり、重臣格の家臣の扶持
   であり、利根川に捨てることなどありえないことです。




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   追記  平成20年1月12日

   この明治44年に発刊された『喜連川町郷土史』の「狂える名君」の元となった
   寛文十一年(1671)に記録された古文書『喜連川家由緒書』(表題は喜連川御家)が
   平成19年6月に、現さくら市から発刊となった「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」の
   第三章第二節、家の継承の「尊信公一件」として、掲載されました。

   古文書の題名から始め、喜連川家の家伝書か?と思い原文を読んでみると、確かに
   この「狂える名君」で書かれた事件の顛末が「百石の覚書の件」も含め記録されてい
   ました。

   ところが、最後に記録者として連判している署名を見ると、事件に係わった五人の百姓
   の名であったのです。しかも、子孫にこの書面を亡くすなと書かれた五人の百姓家の
   家伝書だったのです。内容と評価については、『喜連川家由緒書』を参照すれば明白
   です。

   論述中の多くの矛盾と年代、人物錯誤の入り混じった「偽造書」ともいえるものでした。

   この「狂える名君」の作者、故高野○○氏はこの『喜連川家由緒書』の内容を参考に
   事件のヒーロー高野修理を先祖と思い込み、思い入れも付加した形で、独自の表現
   とストーリーを含め執筆されたようです。

   しかし、調査の結果「高野修理」なる人物は、過去に喜連川においては存在しなかった
   のです。

   確かに、『喜連川家由緒書』記録には、高野修理は存在しますが、これは五人の百姓
   の名を騙る、執筆者(おそらく子孫)の誤筆で「高修理頭(こうのしゅり)」を同読みの
   「高野修理」と書き誤ったからと思われます。

   そして、「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」の第四章村の生活に添付された、寛永
   十年(1633)の「長百姓姓名書上」に記録された、旧領主塩谷家の家臣達45人の中で
   城下の町人となった、「高野加茂左衛門」と加藤(地名)内にて百姓となった「高野鴨
   左衛門」の二名が確認できるのです。

   すなわち、『喜連川家由緒書』を記録した、元塩谷家家臣であった百姓にとって、書面
   でなく耳で「こうのしゅり」と聞けば「高野修理」と書いてしまうのは、やむおえないこと
   であったともいえます。

   旧喜連川町における現高野家は、旧塩谷家家臣の家であり、江戸時代は町人と百姓
   で喜連川家の家臣ではなかったようです。当然、高階氏流高家とは無関係のようです。

   しかし、戦国時代をへて、なんらかの形で高家の子孫が、旧塩谷家の家臣となって、
   家名を「高野」に改名していた可能性は、否定できるものでもありません。

   とはいえ、古河公方家の重臣高家が喜連川に移住したからといって、由緒ある家名を
   変える理由も見受けられないといえます。

   喜連川の高(こうの)家と梶原家は、事件前と事件の首謀者として、喜連川から追放さ
   れた事実は墓が残っていないことからも明白です。

   二名の追放は、喜連川家の『喜連川義氏家譜』(東京大学史科編纂所所蔵)に記録
   された事件記述からも明白です。