9 <<旧喜連川町発行文献の歴史歪曲と矛盾>>


      史実を探るべく、旧喜連川役場、現さくら市喜連川支所の資料館&図書館にて、

      旧喜連川町の発行した『喜連川郷土史』明治44年編と『喜連川町誌』昭和52年

      (1977年)編の事件記述を調査した結果、数多くの歪曲と矛盾が判明した。



     <史実の歪曲その1>

      明治44年編さん『喜連川郷土史』の「狂える名君」という読み物では、この喜連

      川騒動事件を4代喜連川昭氏公の時の事件として書かれております。 

      ところが、4代喜連川昭氏公の死去年齢は約72歳で、1713年ですので一色刑部

      少輔崇貞が生きていれば117歳以上の年寄りになってしまいます。 喜連川騒動

      事件の幕府評定の年は、1648年ですので、喜連川昭氏まだ7歳です。

      つじつまが合いません。 「寛政重修諸家譜」にも、4代喜連川昭氏の出生年は

      寛永19年(1642年)であり、家督相続は、慶安元年で7歳と記録されています。


      実際のところ、昭和52年編さん『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」では、3代

      喜連川尊信公の時の事件として、書き直されております。 しかも、なんと3代喜

      連川尊信公の家督相続年齢が7歳と記述されているのです。


      3代尊信公の誕生年は、喜連川町誌の年表においても、1619年ですので、1630

      年の家督相続ですから、実際は”約12歳”です。  よって、執筆者は4代喜連川

      昭氏の家督相続年齢の7歳と混同したものと判断できます。 つまり、『喜連川町

      誌』の「喜連川騒動の顛末」の執筆者は、十分な調査をおこたり、先に出版された

      、『喜連川郷土史』の「狂える名君」の記述に、都合よく影響されていたことは、明

      らかなのです。そして「狂える名君」の最後の部分、特に「義勇の百姓5名の行動

      記述」に大きな矛盾が存在します。


      この大きな矛盾ですが、この5人の百姓は旧喜連川城主であった塩谷安房守惟久

      の遺臣であり、時の天下人豊臣秀吉の命により、新喜連川城主として足利国朝が

      入城した時、潔く浪人し百姓に落ちた本人又は子供達なのである。

      しかし、この事件の評定役の1人であった老中松平伊豆守信綱から、 「百姓の身

      でありながら藩主のために命をかけて働いたこと大儀である。もし、江戸に来て仕

      える気があるのならそれぞれ、100石扶持で召抱えるぞ。」(要訳)と覚書をもらった

      が、帰国途中に「このような物を持ち帰るならば、子々孫々までもが喜連川家への

      忠義の心を無くしてしまう。」(要訳)


      と皆で考え、利根川に、この覚書を流してしまった。という話です。 当時の喜連川

      藩は4800石の小藩であるが、藩主の10万石の家格を維持しなければならず、家老

      職の扶持でさえ200石・若家老で150石どまりであり、下級武士では6〜7石でしか

      ないのです。 まして、元々塩谷氏の家臣であり、運悪く百姓に身を落としていた者

      が、なんと100石取りの立派な上士格の武士に返り咲けるものを、年貢を搾取する

      新藩主に、子々孫々まで百姓として忠義を立てる義理がどこにあったのでしょうか。


      旧喜連川町は喜連川家が本来足利家であることを誇示したかったのでしょう。


      もっとも文面は、素人の方にも面白く読みやすくなっております。時代劇風に書かれ

      ており、教育制度が十分でなかった頃の、多くの当時の町民は、この作り話を、その

      まま受け入れてしまったことでしょう。(登場人物がリアルですから、一般人から見れ

      ばりっぱな喜連川の歴史を語る文献です。) 


      これは、江戸時代の方なら「100石」の意味は常識として理解されていたことですの

      で「狂える名君」は明治44年の旧喜連川町編さん委員会の方が、作られた物語で

      あった可能性が高いと思われます.。 また、この「狂える名君」では4代昭氏の生母

      であり3代尊信の側室(一色刑部の娘)と正室との勢力争い、そして側室が生んだ

      男子(4代昭氏)の生誕が、一色刑部等の横専の始まりとされ、これを見た3代尊信

      が一色刑部の横専の真意を見定めるべく”偽発狂”を始めたと記述されております。


      しかし、この側室(欣浄院)の死去年は前述の通りで、喜連川騒動事件の幕府評定

      年(1648年)の6年前の寛永19年12月2日(1642年)ですので、4代昭氏を生んで

      早々に欣浄院(側室)は死去しているので、「狂える名君」で書かれた「嫡子にかか

      わる、正室と側室の勢力争い」が発生に至る道理など、どこにもないのです。



      そして、この記述が仮に本当なら、事実上、3代尊信の「偽発狂」は少なくとも6年

      以上は続けられたことになります。 正気の人間に、このようなことが出来たとは

      思えません。 そこで、昭和52年発刊の『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」

      は、1647年夏から偽発狂が始まったと 、修正してしまいました。


      しかし、この根拠はどこにあったのでしょうか? 当初、「狂える名君」は現喜連川

      町史編纂委員会にて、町内の高塩家にあった古文書「高塩家文書」から書かれた

      ものと直接聞いていました。 しかし、実際は『喜連川家由緒書』(葛城佐野家所蔵)

      でした。(平成19年6月担当編纂責任者(主事)から確認) 


      また、『喜連川町誌』の年表によると、3代尊信の側室(欣浄院&一色刑部の娘)の

      死去した翌年の寛永20年(1643年)に喜連川家の館に火災が起きていますが、原因

      不明とされております。


      しかし、町中の火事ならそれで済むでしょうが、藩主の館の火事が原因不明で済まさ

      れるとは思えません。  警備担当の家臣は、これでは切腹モノであり、偽の下手人

      を立ててでも事件解決を謀ってしかるべきではなかったか? もっとも、藩主の発狂

      が原因であれば、うなずける記録です。




    < 史実の歪曲 その2 >

      また、昭和52年(1977年)編『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」の記述にも大き

      な矛盾が4つある。



     < 矛盾その1 >

      それは、

      「正保四年(1647)年夏、生来丈夫な方でなかった尊信は重い病気にかかった。

       これをとらえて一色刑部は、配下の伊賀金右衛門、柴田久右衛門らと共謀し、

       主君尊信を「狂乱の症発す」と言う理由で城中に幽閉してしまった。」(要訳)

      とあり


        「翌、慶安元年(1648)春、二階堂又市、武田市朗左衛門、高滝清平、高瀬

         善左衛門、小関嘉之助相謀り、権臣の勢に勝ために「江戸表に訴え難を解

         くこと」に決した。」(要訳)

      とある。


      この記述を参考に尊信公の病気発症を「夏」の表現から、旧暦であるので七月

      として直訴計画の決定が翌年春を三月とするならば直訴決行まで、なんと、八

      ヶ月の月日を要しているのです。  正常であることを、確認できた主君尊信を

      半年以上、城内の座敷牢にとどめることを忠臣”尊信派”は許したことになる。


      ところが、この後に付記されている尊信公から5人の百姓に渡したという、御直書

      の内容が疑わしいのである。 5人の百姓の”名前付き”で書いてあるのだが・・。

      なんと、日付けが「正保四年(1647年)八月十四日」になっているのである。 この

      日付では、3代尊信が病気を発症し幽閉されて直ぐに、この書状を書いたことにな

      ります。


      先の『喜連川町郷土史』の「狂える名君」の記述においては、側近老臣高野修理

      までもが主君尊信公の前で切腹を決意するなど、「尊信公が狂乱か正常か悩んだ」

      ほど判別に時間を要したはずなのにである。 よって、老臣高野修理が二階堂又市

      等の尊信派家臣と直訴計画を練り始めるに至るには、3代尊信の発病から最低2〜

      3ヶ月は必要であろうし、『喜連川町誌』昭和52年版の「喜連川騒動の顛末」の記載

      どおり、尊信が本当に、この日付けの通り直書を書いたのなら、老臣高野修理が尊信

      の前で切腹を謀るほど、悩む理由はなかったはずである。


      即刻、二階堂又市等尊信派の家臣と謀り彼等の幕府への上訴決行は1647年夏〜

      秋中には行われてもしかるべきではなかったか? 藩主の”前年の正保四年8月14

      日付けの命令書”が出されているのに、忠臣”尊信派”の家臣達の直訴が半年以上

      遅れることは、いかがなものでしょうか? しかも、正保四年8月14日時点で尊信が

      知るべくもない旧領主塩谷家家臣関係の百姓五名の名が、この「江戸行きの命令書」

      に書かれていること自体が怪しい。


       『喜連川家由縁書』には、旧領主塩谷家家臣として二名、平三郎村 関(平三郎)

      伊右衛門・葛城村 飯島平左衛門、と旧領主塩谷家家臣で百姓となった者の子で、

      それぞれの母が藩主尊信の乳母であった葛城村 金子(不明)半左衛門・小入村 

      岡田(新九郎)助右衛門・東乙畑村 簗瀬(伊賀)長左衛門の三名のことが、江戸の

      老中達に提出した身上書の内容として記録されている。


            (この身上書の宛先は酒井雅楽頭(若年寄)・松平伊豆守(老中首座)・

             土井大炊頭(前大老)・阿部豊後守(老中)の筆順。土井大炊頭(利勝)

             は、酒井讃岐守(忠勝)と共に江戸幕府の大老であり、古河藩主、当然

             、この宛先の筆頭でなければならない。  しかも、事件(慶安元年)の

             四年前に死んでいる人物である。 さらに、酒井讃岐守(大老)が後見し

             た、甥の酒井雅楽頭は、まだ若年寄で、老中ですらない。 大老の酒井

             忠勝を意味するなら「酒井讃岐守」でなければならないので、この事件

             に関わった五人の百姓達が提出した記録とは思えない。)


      疑問に思い、関係する(新)喜連川町史に掲載されている古文書写真を調べたところ

      この直書(命令書)は見当たらないのである。 実在するのなら、この事件の史実を

      表す重大な証拠物件であり、堂々と公開できたはずではなかったか?。 

      たとえ、あったとしても3代藩主尊信の「花押」が押された、直筆であったかどうかも

      怪しいものではなかったか?


      すなわち、この「直書」は当時の編さん委員会にて、もっともらしく作られ『喜連川町誌』

      にのみ活字印刷された「偽造文書」であるので写真資料として公表できない。 といわ

      れても、いたしかたないのである。


      もっとも、ここまでやれば、一般人はれっきとした、歴史文献として信じるのは、当然の

      ことでしょう。 しかし、私は騙されませんでした。逆に歪曲の証拠の一つとさせていた

      だきました。



      < 矛盾その2 >

      「喜連川騒動の顛末」では、浪人高野修理は、万姫の護衛をどうするのか困窮した

      と書かれており、「藩士を護衛に付けるならば、一色派にたちまち直訴計画が発覚

      してしまうので、苦心をして藩内の5人の百姓を選び出し、万姫の護衛にした。」(要

      約)と記述されております。



      ところが、この文中では、その口も渇かぬ内に、「念のため五人の同心と草履取の

      十三郎を別に護衛に付けた。」(要訳)と記述されております。


      五人の同心とは、すなわち全員喜連川藩士であり、何のための”五人の百姓”の選

      び出しであったのか? 納得できない矛盾した記述です。


      なお、五人の同心とは、富川定右衛門、星作右衛門、恩田新左衛門、高塩清左衛門

      、高橋善左衛門の五人である。 しかも、先述の”五人の百姓”の存在が直訴をさら

      に困窮させたと記述されております。


      ところが、「喜連川騒動の顛末」には、「直訴計画の可能性を調べるべく、事前に老臣

      高野修理は脱藩し尊信派と直訴計画の密議に入る前に、江戸に1人出向き老中の

      嶋田丹波守、松平伊豆守に会い、控訴手続きについて同意を得るため下交渉をした

      。」(要約)と記述されております。(嶋田丹波守の紹介で松平伊豆守に接見か?)


      さらに、「成算ありと見て尊信派の密議となった。」と記述されております。 なぜ、慶安

      元年(1648)の直訴において、5人の百姓の身分が直訴の困窮原因になったのでしょ

      うか? 事前に、高野修理が老中松平伊豆守と下交渉していたはずではなかったの

      か?。まして、五人の百姓に渡された、「3代尊信公の花押入りの御直書」があれば、

      尊信の真意を伝える公式手形であり、直訴が困窮する理由など無いはずです。


      ”偽の御直書(命令書)”であったので、百姓は騙せるが3代尊信公の「直筆」と「花押」

      を知る幕府役人の目は騙せなかったと見るのが自然なことです。


      一方、本年(平成19年)6月に新「さくら市」の現喜連川町史編纂委員会は明治44年

      発刊の『喜連川町郷土史』の「狂える名君」および昭和52年発刊の『喜連川町誌』の

      「喜連川騒動の顛末」の元となる『喜連川家由緒書』を「『喜連川町史』第三巻資料編

      3近世」に掲載しました。 しかし、この『喜連川家由緒書』に忠実な編纂ではなかった

      ことが確認できます。ここで、『喜連川家由緒書』の要点と矛盾点を下記に示します。



        @ 五人の百姓は1647年、正保四年8月の喜連川尊信の「江戸行きの命令書」

           により、幕府への直訴を同年同月と翌年1648年7月の2度に渡って行った

           ことが記録されていること

          (「喜連川騒動の顛末」「狂える名君」では、本来二度あった直訴は1648年

          慶安元年春の一度だけの直訴に変更されています。)



        A 正保元年(1644年)に死去している土井大炊頭(利勝)が存在し得ない慶安

           元年(1648年)の事件評定に参加していること(「喜連川騒動の顛末」では、

           土井大炊頭の替わりに阿部対馬守重次が追加されており、「狂える名君」

           は削除されています。)



        B 慶安元年はまだ若年寄であった、酒井雅楽頭(忠清)が老中筆頭として事件

           評定に参加している。酒井忠勝(讃岐守)なら大老であったが酒井雅楽頭と

           記録されている。 とうてい評定に参加した百姓本人の記録とは思えない。



        C 下記の『喜連川家由縁書』の記録者は幕府評定に参加したとする五人の百姓

           の一人、旧喜連川領主塩谷家の家臣飯島平左衛門こと、佐野越後であるが

           二階堂主膳(後の主殿)の預け先を、「白川城主本多能登守」と記録している

           が、徳川幕府の公式文献である、「寛政重修諸家譜」による史実は慶安元年

           の本多能登守忠義は播磨国姫路城主であり、慶安元年の白河城主は松平

           (榊原)忠次であるので、下記の記述にも明らかな矛盾が存在している。「五

           人の百姓」は幕府評定には参加していないことが疑われる。


            「於江戸表ニて□□御万姫君様・五人之者度々被□召出、於御評定に

             御尋被遊候ニ付御国に元之御様子不残申上候、御上使様よりも御相違

             無之趣被□仰上候ニ付、喜連川御家老一色刑部・御子息左京殿・石堂

             八郎殿・伊賀金右衛門殿・御子息宗蔵殿・柴田久右衛門殿、伊豆之大嶋

             え流人被□仰付候、御子息方ハ御大名・御旗本方え御預ケニ相成、

             此節二階堂家之儀御尋有之ニ付、未若年之旨申上候得ハ、拾五歳若年

             トハ乍申、家柄之義、今度之儀不行届之儀ニ思召シ、白川城主本多能登

             守様え御預ケニ相成、・・・」


            私訳)江戸表において、お万姫君様・五人の者どもは召し出され、ご評定に

               おいてお尋ねられたので、国元の様子を残さず申し上げました。御上

               使さまも間違いないことを、おうせあげられたので、喜連川家家老の

               一色刑部殿・御子息左京殿・石堂八郎殿・伊賀金右衛門殿・御子息

               宗蔵殿・柴田久右衛門殿、伊豆大嶋へ流人となるよう、おうせつけ

               そうろう。 御子息方はお大名、お旗本方へお預けとあいなり、その

               せつ二階堂家のことをたずねられたので、まだ若年ですのでと申し

               あげましたが、十五歳で若年とはもうせ家柄であり、このたびのことは

               不行き届きであると思い招くので白河城主の本多能登守様へ御預に

               あいなり・・・・」



          <追加史料>

          57「江戸幕府老中奉書」(栃木県さくら市発刊「喜連川町史」の喜連川文書


           喜連川右兵衛(尊信)事、狂乱無粉候慮、隠置候義不届候間、領地?可被

           召上候、異他家義候間被成御有免候、似相之所相囲差置之、息梅千代者

           幼少之事候間、其方萬事致差?、家来共守立候様ニ可仕詣、被?仰出候

           次一色刑部・柴田久右衛門・伊賀金右衛門・事者、右兵衛狂乱之段不申上

           隠置候義、曲事被思召、大嶋江被慮流罪、彼者共男子之分者、所々江御預

           之事候、然者二階堂主殿者代替ニ付き?、其方被成御預候、可被得其意候

           恐々謹言

                                            阿部対馬守(重次)

           十月十八日(慶安元年)

                                            阿部豊後守(忠秋)

                                            松平伊豆守(信綱)

           松平式部大輔殿(榊原忠次)



          私訳)喜連川尊信のことであるが、狂乱は紛れも無いところで、長く隠し置いた

              ことは、不届きであり、領地没収(めしあげ)のところであるが、他家のこ

              ととは異なり、許すことと成った。 似合の所、相囲みこれを差し置くので

              (引き続き、尊信は押込とし、致仕とする)息子の梅千代(昭氏)が幼少

              の間は、そのほうに万事まかすことにする。家来とともに守りたてる様に

              、(上様から)おうせがあったので、被仰出候(登城するように)。

              次に、一色刑部と柴田久右衛門と伊賀金右衛門のことであるが、右兵

              衛(尊信)の狂乱を申し出ずに隠し置いたことは、曲がりごとであると思

              うので大嶋へ流罪とし、かの者の嫡子(男子之分者)は、所々へ御預か

              りの事となった。(曲事とは、当時の諸法度に照らし正しくないの意味で

              ある)したがって二階堂主殿者は代替(二階堂主殿の嫡子主膳のこと)

              であるので、その方に預けることと成った、その意を得ていただきたい。




        D 慶安元年(1648年)の事件評定後に、3代尊信の隠居と4代昭氏(七歳)の

           家督相続の記録が残されているが「狂える名君」「喜連川騒動の顛末」

           では記述に矛盾が発生するため記述されていないこと


           「梅千代様御七歳之時、左兵衛督昭氏公と奉申上候、江戸表へ御登被

            遊候、御共ニハ大草四郎左衛門様、御老中御廻被遊、尊信公様ニは

            江戸御参ン府ハ不被遊候、是より昭氏様御代ニ相成、万姫君様ニは

            佐久山福原内記(資敏)様え被為入候」


           上記は『喜連川家由縁書』の記録の該当原文です。


           喜連川昭氏の生誕は、寛永19年(1642年)10月24日ですので、七歳で

           あれば七年後の1648年〜1649年の家督相続を記録していることになり、

           喜連川尊信の生誕は元和五年(1619年)ですので喜連川尊信(29〜30歳)

           の隠居を間接的になりますが『喜連川家由縁書』は記録していることになり

           ます。

           そして、「狂える名君」「喜連川騒動の顛末」の筆者は、この記録を当然

           読んでいる訳ですが、都合が悪いので黙殺したとも判断できます。そして、

           直後の「万姫君様ニは佐久山福原内記(資敏)様え被為入候」の記録は

           採用しています。



        E 二階堂主殿の1671年の帰参、尊信派の高瀧、高瀬両名の1669年の帰参

           など尊信派の処罰を表す記述が記録されていること


           「寛文九年(1669)ニ高瀧六郎殿、高瀬九郎右衛門殿帰参被□仰付、同拾年

            (1670)五月二日、左兵衛督様御遠行被遊候、二階堂主殿御帰参之願、右

           五人之百姓御願上候処ニ、□□御所様より□御公儀様えお願被遊、大森

           信濃守(頼直)様御取持ニて、同十壱年(1671)ニ白川之城主本多能登守様

           より御帰参被遊候、其節則為御迎葛城村平左衛門能越、御供仕能帰り候」

           (葛城村平左衛門とは五人の百姓の一人で、この『喜連川家由緒書』の記録

           者である飯島平左衛門(佐野越後)のこと。)


           「喜連川騒動の顛末」では、これら尊信派の帰参記述はされていない。事件

           の忠臣尊信派家臣の処罰事実は、都合が悪いとの判断か? 

           しかし、『喜連川町誌』の年表には、1662年の二階堂主殿の帰参が記述され

           ているが、旧喜連川町史編纂委員会は、この二階堂主殿の帰参根拠資料を

           明示していない。(百姓家の家伝書(武勇伝)『喜連川御家』(佐野家文書)の

           記録では、二階堂主殿の帰参は1672年で飯島.平左衛門(佐野越後)が白河

           藩に迎えにいって供をして帰ったと記録されている。都合よく改ざん?)


        F 上記の原文に続き、1662年にすでに死去している、存在し得ない松平伊豆守

           から「100石にて召抱えの書付」を五人の百姓が1670年に渡されたと記録さ

           れていること


           「右一件□邪正分相治候て後、□御老中様方奉始メ御役人様方、右五人の

           者共士分之末トハ乍申、今度之僅行一民間ニ下り、稀成忠節之義共御称美

           被遊、松平伊豆守様より至り末々、此一紙於差出ては百石宛可被下置候由

           御書付被下能下候節、五人之者色色致評義、万一至り後代能出候てハ、

           年来之忠節も空仕候道理、却て不宣心得違も可有之哉と相談之上、栗橋川

           ニて引きさいて流失仕候、右之通り相違無御座候間、代々不取失様二所持

           候、以上」


           一方、明治44年の「狂える名君」では、この書付は評定時(1648年)に渡され

           たかのように記述されています。 しかし、昭和52年の「喜連川騒動の顛末」

           では、執筆者はこのことに気付いてか、この記述はされていない。



        G  この「家伝書」の執筆者が、歪曲の意思なくして、このような誤記をするはずが

           ない、直訴の当事者である「五人の元百姓」の連判であること



        H  幕府評定の終了日を慶安元年七月二十日としているが、史実は『喜連川文書』

           の幕府老中達の手紙の内容から十一月十八日頃と確定、しかも三代尊信の

           「狂乱事実」も確定でされたので、七月二十五日の尊信の「押籠」からの開放

           も偽りである。



      など、喜連川町葛城の佐野家に伝わる、疑わしい「家伝書」であることに、さすがに

      「狂える名君」「喜連川騒動の顛末」の執筆者達は気付いたので、そのまま編集

      できなかったことが伺われます。 また、『喜連川家由縁書』の記述中には、喜連川

      尊信の押籠理由は、「生来気性が荒い方であったため」とし記録しており、「狂乱」を

      表す文字は一切使われていません。


      尊信の狂乱を示す文書史料は、『喜連川文書』『及聞秘録』『喜連川義氏家譜』

      などで、おそらく明治44年の「狂える名君」と昭和52年の「喜連川騒動の顛末」

      執筆者である二名は、この尊信の「狂乱の事実」を示す史料・文書を検証した上で

      彼等の目的のために、尊信を「偽狂乱」として、事件記述を歪曲改ざんしていたの

      である。


      すなわち、喜連川町葛城の佐野家の「疑伝書」である『喜連川家由緒書』を基に、

      執筆者の先祖達を忠臣に仕立てるために、自らに都合よく歪曲、改ざんしたのが

      旧喜連川町が昭和52年に発刊した『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」と明治

      44年に発刊した『喜連川郷土史』の「狂える名君」だったのです。


      しかし、明治時代はともかく、昭和52年の『喜連川町誌』の編纂時には、身内の

      理論にとらわれない、「喜連川騒動の顛末」の編集にあたるべきではなかったか?

      もっとも、これが地方自治体の発刊物の現実なのでしょう。



      < 矛盾その3 >

      喜連川町誌「喜連川騒動の顛末」の幕府評定記述では、二階堂主殿(又市)は

      この時、幕府評定には、参加していないことになっています。しかし、喜連川文書

      として残された、幕府老中から白河藩主榊原(松平)忠次に宛てられた文書中で


        「二階堂は(江戸に呼び寄せてあり)不在であるので、誰か適任の者を一人

         かの地(喜連川)に使わしてくれ」


      とあります。  つまり、二階堂は江戸の幕府評定に参加していたことになり、矛盾

      が起きています。


      また、喜連川尊信の病気養生中、江戸の徳川将軍家(家光)への年始挨拶御名代

      が二階堂であったことを示す文書が、同じく喜連川文書として残されています。筆頭

      家老であった一色刑部少輔に宛てた、土井利勝からの文書が納められており、



       『尊書かたじけなく拝見いたし候、改年の御慶び珍重申し納め候、ついで年頭の

        御礼に御参行なされべく候ところに、旧冬より御わずらわしく御座候ゆえ、御名代

        として二階堂主殿助をもって仰せられ候、その意を得奉り候、委細の段、老中より

        申し達せられるべく候、さらに、御祝儀として雉子十下し置かれ候、まことに御念

        入らせられ候段、過分かたじけなく存じ奉り候、これらの通り、よろしく御心得に預

        かるべく候   恐々謹言    猶以て、印判御免成らるべく候、以上』

        (喜連川町史 第五巻 資料編5 喜連川文書 上 より)



      としるされています。


      つまり、「委細の段、老中より申し達せらるべく候」の表現は、土井利勝が大老であ

      った時の文書であることを示し、土井利勝が死去したのは事件の四年前ですので

      狂乱中の喜連川尊信を三家老が押籠めにした寛永十八年(1641年)から土井利勝

      が死去する正保二年(1644年)までの間に書かれた文書です。


      そして、この文書は二階堂主殿助(又市の父)も三家老の一人であり、喜連川尊信

      の押籠めに参加していたことを示し、『及聞秘録』の事件記述の正しさを示し、同時

      に直訴と幕府評定に参加したとされる五人の百姓の一人(佐野越後こと飯島平左衛

      門)が、喜連川町葛城の佐野家の「家伝書」として残した『喜連川家由縁書』および

      明治44年の「狂える名君」と昭和52年に発刊された喜連川町誌「喜連川騒動の顛末」

      の事件記述は改ざんされた事件記述であることも証明されます。


      以下、の<歪曲その4>は、まさ旧喜連川町史編纂委員会による、3代喜連川尊信

      の隠居を隠すことで、喜連川町職員OB&現役職員の先祖を含む、尊信派()を忠臣

      とするための、明らかな改竄工作です。




     < 歪曲その4 >(尊信派の方が逆臣であった)

      さらに、喜連川町誌に付属されている、年表には、3代喜連川尊信までの藩主の出生

      年は記述されているのに、4代喜連川昭氏の出生年が記録されておりません。しかし

      、これだけなら、たんなる記録漏れでしょうが、 なんと、「承応二年(1652)三月十七

      日の3代尊信の死去により、(当時7歳の)嫡子昭氏が将軍家綱の命により榊原式部

      大輔忠政を後見人として4代藩主になった」と記されているのです。


      あろうことか、榊原忠政は3代尊信の母系の叔父ではあるが、喜連川騒動(1648年)

      の40年前の1607年に、すでに死去している人物です。


      よって、その嫡子であり、母が徳川家康の姪であるので、一代かぎり、松平の姓を

      許された松平忠次(榊原忠次)であるはずですが、松平忠次は1652年当時は播磨

      姫路藩主なのです。幕府公式文書『寛政重修諸家譜』より。 もっとも、喜連川騒動

      の1648年であれば白河藩主でしたので、4代喜連川昭氏の家督相続が喜連川騒動

      における、3代喜連川尊信の「発狂による隠居」に起因するものであれば、つじつま

      が合ってくるのである。


      さらに、素直に『喜連川町誌』の記述から1652年当時、4代昭氏の年齢が7歳であっ

      たことを考察すると、4代昭氏公の出生年は、『喜連川町誌』の年表には記されてお

      りませんが1652年の7年前、1645年となります。


      算式:1652年 - 7歳 = 1645年(喜連川町史から推定される4代昭氏の誕生年)


      ところが、この4代昭氏の生母.(一色刑部の娘)の死去年も、やはり『喜連川町誌』の

      年表には記されておりませんが、墓石に刻まれた死去年は、『喜連川町誌』の情報

      により算出できた上記の喜連川尊信の出生年である1645年のなんと3年前、寛永

      19年(1642)12月2日なのです。


      あろうことか、4代喜連川昭氏の、この世に存在した歴史が消えてしまうのです。 

      そこで、4代昭氏の家督相続年を喜連川騒動事件のあった慶安元年(1648)にする

      ならば、事件の約6年前の1642年、4代昭氏が0歳の時、実母(一色刑部の娘)は

      その出産が原因で死去したと言う形で、4代昭氏の生誕の歴史が復活する。


      算式:1648年(事件発生年) - 約6.年 = 1642年(4代昭氏の誕生年)


      算式:約1642年(生母の死去年) - 1642年(昭氏の誕生年)

                              = 0歳(生母死去時の昭氏の年齢)


      このことは、一色刑部の娘で側室である、4代昭氏の生母の思いがけない出産に

      伴う死去による3代喜連川尊信の精神的落胆の程も十分に伺えます。  つまり

     、『喜連川町誌』の年表の4代昭氏の家督相続年1652年の誤り(歪曲)が確定する

      のである。


      このことは、『寛政重修諸家譜』や『喜連川文書』でも、平成19年6月に発刊された

      「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」に収録された、『喜連川義氏家譜』(東京大学

      史科編纂所所蔵)と同じく収録されている『足利家御系譜』(相馬氏所蔵)でも確認

      できます。


       「寛永十九年(1642)十月廿四日生 慶安元年戊子家督、幼稚ノ間、大猷院殿

       依□命榊原式部大輔忠次後見・・・・・・・・」

         注(喜連川か家臣相馬家所蔵の御系譜では後見人を榊原式部大輔忠政と

           誤記していますが内容は同じです。)


      すなわち、三代将軍徳川家光(大猷院殿)の命により慶安元年(1648年)に4代昭氏

      が家督を相続したと明記されているのにです。とはいえ、「喜連川騒動の顛末」執筆

      者の誤りなのか?、故意の歪曲なのか?、十分な調査を怠り、単に3代喜連川尊信

      の死去年に合せたいいかげんなツジツマ合せなのか?は、わかりませんがね。


      また、事件評定記述において、二階堂又市の預かり先が白河城主本多能登守とな

      っているが、1648年の白河藩主は榊原忠次であり、本多能登守は1649年6月に

      白河藩主になった人物です。『寛政重修諸家譜』より。 


      少なくとも一色派逆臣説を唱える尊信派の子孫らしき「喜連川騒動の顛末」執筆者

      が『喜連川町誌』昭和52年(1977年)版に同付した自作の年表により、その矛盾が

      明確になったのである。 よって、『喜連川郷土史』明治44年編にも『喜連川町誌』

      昭和52年版(1977年)にも記載できなかった 「3代尊信公は1648年の喜連川騒動

      事件の責を幕府に問われ隠居した。」という事実が立証できたのである。 幕府公式

      文献でも生母の死去年に基ずく物理的判断においてもである。 そして、 「喜連川

      騒動の幕府裁定により、筆頭家老当一色刑部の娘「欣浄院殿」が生んだ、生母」と

      なる当時7歳の昭氏が4代喜連川藩主となった。」という史実が、昭氏の生母の墓

      刻まれた死去年からも物理的に証明できたのである。


      即ち、4代昭氏公の家督相続にかかわる、『喜連川町誌』の年表の記述は、史実に

      誠実に「慶安元年(1648年)、将軍徳川家光公の命により、3代尊信公は喜連川騒動

      の責を取り隠居、嫡子昭氏が榊原式部大輔忠次を後見人として4代喜連川藩主とな

      る。」と訂正されるべきである。


      旧喜連川町がすでに存在しなくなった現在、修正は不可能ですが、せめて(新)さくら

      市発行の「『喜連川町史』第三巻 近世」では是非、修正していただきたいものです。

      また、公的機関として、その義務はあるはずです。


      つまり、「喜連川騒動の顛末」で記述された尊信派の直訴事件により、3代喜連川

      尊信公は幕府に隠居させられたのであるから、この尊信派と言う命名も彼らの子孫

      となる執筆者達による、町民を中心とした読者をたばかるための表現であり、歪曲

      どころか捏造ではなかったか?




     < 史実の歪曲 その5 (都合の悪い古文書は無視した事件の執筆者) >

      また、資料館に保存されているはずの故小林正治氏(喜連川町誌編さん委員の1人)

      の提供された文書『小林家代々日記』という資料に、実は面白い記述があります。 

      当時、史実に忠実でありたいと言う意思が通らず、編さん委員を途中辞任れた小林

      氏が生前、原文をコピーした物をお持ちになって、そっと教えて下さったのですが。


      事件後、時の筆頭家老一色刑部の実弟山本官作が、下川井村根岸に住んでいた

      ので根岸五郎左衛門と名を変えて帰参し、上町に住み右衛門守(氏信)に家臣とし

      て勤めその後、商人となった、しかしまた、4代喜連川足利昭氏に、根岸連談と名を

      改め再仕官したというのです。


      根岸五郎左衛門が武士をやめ、商人となったのは、親族である主君尊信が遂に

      常時発狂状態となる、末期の精神分裂病に至り、死去したためではなかったか。


      また、まだ幼君であった4代昭氏が元服後、叔父根岸五郎左衛門を再仕官させた

      時には、根岸連談と改名させ相談役にでもしたとも取れる内容なのです。


      解釈はいろいろありますが、謀反を起こされたはずの3代喜連川右兵衛督尊信と

      大島遠流とされた一色刑部少輔崇貞の孫でもある4代喜連川左兵衛督昭氏が.、

      足利一族である外祖父の実弟である一色五郎左衛門崇利(根岸連談)を2度に

      渡り武家諸法度の禁に触れぬよう、名を変えさせ側近(実質家老首座)として、再

      仕官させていたのである。


      この情報を下さった小林氏の墓は、足利家の墓正門を正面に見て一色家の墓の

      通路を挟んだ左側にあり、当時の小林家は、同日記によれば一色家とは大変親

       しい間柄だったようです。 一色家の墓参りの時には、必ず小林さんの墓も参ら

      せていただいております。 歴史の歪曲が、『喜連川町誌』昭和52年(1977年)版

      においても、明らかに行われていたのです。


      根岸家は、明治時代に満州国大連に渡っており、現在は旧同町には住んではい

      ませんが小林氏の持参された『喜連川郷土史』・『喜連川町誌』によりこの歪曲を

      知った訳です。 この筆頭家老一色刑部の実弟一色五郎左衛門(根岸連談)の墓

      は欣浄院殿専念寺内の兄一色刑部の娘である4代喜連川昭氏公の生母(欣浄院)

      の墓のすぐ近くにあります。 しかも、事件後の付け家老3名の1人黒駒七左衛門

      の黒駒家の墓は隣で、周囲には逸見家、渋江家、知高家などその他複数の喜連

      川家家臣の墓があります。




      < 史実の歪曲 その6 >

      最後に、明治44年発刊の「狂える名君」と昭和52年の「喜連川騒動の顛末」の筆者

      は、どうして、一環して3代尊信が「偽狂乱」であったと記述しているのか? 喜連川

      町史編纂委員会の回答によると、二つの記述は、『喜連川家由縁書』がその元であ

      るとのことで、平成19年3月発刊で6月発売の『喜連川町史』第三巻資料編3近世に

      掲載したとのことでした。『喜連川家由緒書』(筆者訳)を参照ください。


      この『喜連川家由縁書』を読んでみると、おかしなことに、この記録のどこにも3代喜

      連川尊信について「狂乱」「偽狂乱」の文字が存在しない。 しかも、喜連川尊信の「

      押籠」は7年間に渡り行われたことが記録されていることが読み取れます(当然7年

      間も偽狂乱を続けられる人間はいない。) そして、このことは明治44年と昭和52年

      の執筆者は、3代尊信の「押籠」期間を自分に都合よく短縮し明らかな「改ざん」をお

      こなったことになります。

      そして、3代尊信の「狂乱」の事実を記録した古文書は、 『喜連川義氏家譜』

      、『喜連川文書』『及聞秘録』、東京大学史科編纂所の大日本史DB、『徳川実紀』

      他、13点の事件に係る古記録のいずれかを確認しないことには「偽狂乱」という言葉

      、発想は、起き得ないことです。


      すなわち、旧喜連川町の「狂える名君」「喜連川騒動の顛末」の執筆者二人は、

      このことにおいても、自分に都合よく、明治44年から現在を含め90年以上に渡って

      喜連川(足利)家の存続のために幕府の「武家諸法度」に従い、あえて処罰を背負っ

      た忠臣であった、足利一族で、喜連川家の親族である一色家を、そして伊賀家・柴田

      家の三家老家に逆臣の汚名を着せる一方、逆に武士として恥じるべき直訴を行い幕

      府評定で、その讒言が暴露され、これを認め、罰せられた真の逆臣高四郎左衛門等

      を自分達の先祖(高野修理等)と思い込み、朱子学に基ずく皇国史観の明治・大正・

      昭和の時代ゆへに、彼らを尊信派などと表現し、忠臣に仕立て上げるために、明らか

      な史実の改ざん&歪曲に手を染め、旧喜連川町と現さくら市の名を使い、偽りの町史

      を世に知らしめ続けていたのである。