16 << 喜連川騒動の真実  >>


   16 << 喜連川騒動の真実  >>

      この時代の大名家の婚姻と養子縁組には、戦国時代のような戦略的要素はなく

      「武家諸法度」制定後は大名家(家臣団を含め)の安泰のためにあった。そして、

      「武家諸法度」により大名家の婚姻と養子縁組には幕府の許可が必要になった。


      よって、世継ぎが生まれず、しかも幕府の了解を得られた養子も得られない大名

      家・旗本家は即刻、改易&断絶の時代であった。大名家や旗本・御家人にとって

      、正室や側室はその家の世継ぎを生む為の存在意義が強く嫡子を生んだか否か

      は当然、正室・側室の力関係さえ逆転させる主要因であった。


      3代尊信の正室には女児しか生まれなかった所に筆頭家老一色刑部少輔崇貞

      の娘(日光の浪人伊藤家からの養女、以後伊藤は一色刑部少輔崇貞が取立て

      配人・中老などの要職に就く、おそらく尊信が日光東照宮詣での時にでも見染た

      のでしょう)であり3代尊信の側室となった欣浄院殿が生んだ喜連川昭氏(七歳)

      が嫡子と、ほぼ確定してしまったこと、また喜連川足利家特有の古河・上総の足

      利家臣団の存在もこの事件の背景にあったようでもある。

      そもそも、3代尊信が一色刑部少輔崇貞の娘(欣浄院殿)を側室としたのは喜連

      川家安泰のためであり、三代藩主喜連川(足利)尊信公の判断である。女児しか

      生まない正室に、喜連川足利家の将来を案じ側室を娶ったのである。  そして、

      藩内における唯一の足利一門であるため筆頭家老の家格となる一色家の一色

      刑部少輔崇貞の娘であれば刑部がこれ以上、出世する訳でもなく藩内に乱れは

      起きない。 しかも、さらに他家から娶るわけでもないので幕府の許可も取り安い

      ものであった。 一色刑部少輔崇貞にしても、一色家家祖足利公深以来、先祖

      代々にわたり仕えてきた宗家足利家の断絶改易の危機も去り、喜連川藩の安泰

      に胸をなでおろしていたことでしょう。


      ところが、この喜連川足利家の成立にともなう特有の派閥争いなのか、時代を読

      めない気位ばか高い若家老二階堂又市(15歳)と事件前に喜連川家を追放された

      高修理亮(四郎左衛門)と梶原平右衛門が結び付き、3代喜連川尊信公の狂乱ゆ

      えの「押籠」を利用し、一色刑部少輔崇貞等3家老に罪をかぶせるべく謀反事件を

      画策し、事情を知らない5人の百姓(旧塩谷家家臣)をもたばかり、直訴とゆう形で

      公の事件を起こしたのである。


      幕府は、事の事実を確かめるため、喜連川家の親藩であり、隣国である白河城主

      松平忠次に調査を依頼し、同家家医である関ト養の報告により喜連川尊信の「発

      狂」と「君主押込」の事実を把握した。 この事件は直訴という形での公の事件とな

      ってしまった以上、幕府としても武家諸法度に基ずいて処罰しなければならない。 

      しかし、時の幕府には権現徳川家康公の政略として喜連川足利家を他の大名家の

      ように断絶改易にする訳にもいかない事情がある。


      そこで、徳川幕府の安泰を謀るため一色家の同族で徳川家康のブレーンであり、

      黒衣の宰相とも言われた一色(金地院)崇伝が草案し幕府が制定した武家諸法度

      に従い、喜連川(足利)家が安泰となり、しかも喜連川家の外戚であり、同家筆頭

      家老で足利家の同族である一色刑部少輔崇貞にも悪くはない秘策を、時の大老

      酒井讃岐守忠勝と4人の老中達、同じく幕閣の金地院(一色)崇伝ならびにその従

      兄弟である旗本一色範勝、高家筆頭の吉良義冬等は思案した。なお、大老酒井

      讃岐守忠勝は高家筆頭の吉良義冬とは姻戚関係にあり、目的をもって御上使の

      人選が行なわれた。  (『喜連川家由緒書』では大老の土井大炊頭利勝も評定に

      参加したとされているが、いかんせん百姓家の家伝書である。 土井利勝の死去年

      は寛永21年(1644年)であるので、慶安元年(1648)の評定には絶対係われない。)


      幕府御上使(目付二名)が喜連川に着くと、榊原(松平)家の家医、関ト養の治療報告

      通り3代喜連川尊信は間違いなく「狂乱の病」であった。そこで、筆頭家老一色刑部

      少輔崇貞と幕府御上使である花房勘右衛門・三宅大兵衛の二名(『喜連川義氏家譜』

      を参照)は事前に幕府老中達により準備された秘策にもとずき密議が行われた。


      その結果、永年にわたり足利宗家の為に尽力をつくしてきた足利家の名門である

      筆頭家老一色刑部少輔崇貞と他の家老の家族達は喜連川の地を離れ、喜連川足

      利家の安泰と喜連川藩の繁栄を願い、戦国の世を無くした徳川幕府の体制を守る

      べく、新しく制定された「武家諸法度」にしたがった。


      三家老の罪は、謀反の罪では無く、幕府をも巻き込んだ高・梶原・二階堂又市等の

      偽直訴事件の責を家老の職責としてとること、そして3代喜連川尊信公の「狂乱」を

      幕府に届け出なかった責任により喜連川における一色家、柴田家、伊賀家の三家

      老家は、いずれ再興されることを含ませ、表向きは断絶の形式をとることとした。

      しかも、彼等の家族の預け先はいずれも彼等の一族と深く係りある大名家であり、

      いずれも幕府の親藩であった。(『及聞秘録』を参照)よって、一色刑部少輔崇貞等

      の三家老は家老派の家臣達を集めるなど余計な騒動を起こすことなく、君主尊信公

      と孫となる幼い4代昭氏公の住む喜連川の地を離れ、幕府によって用意された新し

      い道に向かい旅立ったものと思われる。そして、伊豆大島に流されたのは浪人中の

      原告高四郎左衛門・梶原平右衛門等だけであった。

      実際に伊豆大嶋の流人役場の流人に関する文書を調査したが徳川家光の時代の

      流人は御家人二名と町人二名との記録だけである。御家人とは旗本になれなかっ

      た徳川家の足軽で、将軍の顔さえ拝謁する機会のない身分の低い家臣である。

      通常、他家の家臣は陪臣と表記されるので、実際には喜連川家の家臣は誰一人

      として流されていないことになる。 つまり、喜連川足利家から追放され御家断絶の

      危機を画策した高・梶原はもはや武士ではなく町人として流されたということである。

      よって、一色刑部少輔崇貞等、喜連川足利家の三家老は、表向きは伊豆大嶋への

      流刑であるが、実は流されていないとする方が、この事実は理解しやすいのである。

      三家老はその家族とともに、それぞれ関わり深い同族といえる大名家預かりであった

      と思われる。


      そして、喜連川足利家と徳川幕府にとって、喜連川騒動の罪人は「高修理亮」(高四

      郎左衛門)と「梶原平右衛門」(梶原孫次郎)と彼等にたばかれた「二階堂主膳助又

      市(15歳)」等の自称尊信派であったのである。 さらに、尊信派にたばかれた「五人

      の百姓」の一人旧姓佐野越後(飯島平左衛門)または、その子孫が残した歪曲家伝

      書『喜連川由緒来書』(佐野家文書)の存在が明治44年「狂える名君」・昭和52年

      「喜連川騒動の顛末」の筆者二名の筆を踊らせ、さらなる改ざんに彼等二人の手を

      汚させ、そして旧喜連川町はこのことを隠さざるおえない立場となってしまったことが

      証明されたといえる。


      さらに、尊信派の直訴前に死去した、尊信の「押籠」に賛同し尊信の御名代を務めた

      次席家老二階堂主殿助(又市の父)のかわりに、新しく家老の一人に推挙され家老

      となった柴田久右衛門の存在と若家老二階堂主膳助(又市15歳)の存在が改めて

      明確になったといえます。


      『喜連川家由緒書』(筆者訳)喜連川文書の土井利勝から喜連川家筆頭家老一色

      刑部に宛てた手紙(花押付き文書)と『喜連川義氏家譜』を再度、ご確認ください。