6 <<ニつの喜連川騒動の背景と解析>>



      まず、慶安元年(1648年)の喜連川騒動の評定期は、まだ徳川幕府の創設

      期にあり、幕府にとって足利家の存在と存続には多大な意義があったので

      す。 徳川幕府は家康が徳川家は清和源氏流足利支流新田庶流得川氏の

      の流れを汲む家であるとして、家系を詐称し時の武力をもって朝廷に軍事的

      圧力をかけ、征夷大将軍になったことにより開かれた幕府であることは、この

      時期の全国の武家にとって皆周知のことでした。


      日本中には「関が原の戦い」の後で、西軍に組して領地や扶持を失ったり、

      幕府の政略により外様であり改易となった、徳川幕府に不満を持つ旧大名

      や、その家臣達など多くの浪人の存在があり。この時の徳川幕府は、まだ

      形式だけのもので、まだ磐石なものではなかったのです。 よって、初代

      将軍徳川家康は、関が原の戦いの戦勝祝いに使者を送って来た前古河

      公方家嫡流となる喜連川足利家に、外様ではあるが1千石の奥州高貫郷の

      領地を加増し、当時の石高3千8百石と合せ4千8百石ながら徳川家の親族

      扱いとして、10万石格の大名扱いの国主格とし、御所号を許し、さらに江戸

      城内では無席とし参勤交代の免除、そして諸役御免とゆう特別扱いでした。


      つまり、足利将軍家滅亡後、喜連川足利家(古河公方家)を徳川家の親族

      とし徳川幕府内に納めることにより、幕府の権力と正等性を全国の大名および

      武士達に示したのです。 よって喜連川家は、江戸に藩邸を置かなくても良か

      ったのです。 もっとも、江戸に旧公方家が存在することは、幕府にとって都合

      が悪いというのが本音でしょう。 また、喜連川家は幕府のための普請工事の

      担当藩や諸役にも就かなくて良いので、他藩の様に参勤交代の莫大な費用や

      多大な幕府への献上金を使わずに済み、4千8百石の小藩ではあるが喜連川家

      の家計は、実際は裕福だったのです。


      天保十三年(1842年)の喜連川家臣団の家禄&役責取り決めを参照ください。

      喜連川藩家臣の家禄合計は678石でしかないので、当初の藩主であっても4000

      石以上が自由になるのです。 この時代に徳川家康に戦勝祝いの使者を送った

      だけで領地の加増を受けられる横柄な武家は、この喜連川家ぐらいではなかっ

      たか? 一方、幕府にとって足利将軍家が滅亡してるので、本来源氏の頭領と

      なる喜連川家を大藩にしてしまい、他藩のように家臣を沢山抱えさせることは、

      鎌倉時代の足利尊氏のようになられては困るので小藩ながら、徳川家の親族

      扱いとして駿河、尾張、紀州の御三家に準じる家格を与え、先の室町将軍家の

      嫡流となる喜連川家を徳川家の親族として幕府内に納めることは豊臣秀吉と同様

      に徳川家康にとっても幕府安泰のための当然の定石なのである。よって、喜連川

      家は後の御三家となる水戸家と同格の扱いで、喜連川家の家老は将軍との拝謁

      さえ許されていたので、藩主のかわりに江戸城内に出向き将軍に拝謁し、幕府と

      のパィプ役となり、ことを成すことができたのです。


      譜代大名家の家老であっても、これが許されたのは一部の特別な大名だけであ

      り、まして、外様では、この喜連川家だけなのです。  よって、喜連川家当主が

      徳川将軍と直接拝謁(参勤)するのは、正月の挨拶ぐらいでした。ゆえに、喜連川

      家筆頭家老、一色刑部には、将軍との面識もあったでしょうし、幕府内の老中や

      重臣達を始め足利家の親族となる吉良家、幸手一色家などの高家旗本を中心と

      した幅広い付き合いや、親交もあったことは喜連川騒動事件の真相を究明する

      上で、本来、考慮すべきことなのです。


      伊達騒動における「原田甲斐」や忠臣蔵における「大石内蔵助」などの外様大名家

      の家老と同じイメージで喜連川騒動の「一色刑部」を判断することは、史実の本質を

      見落とすことになります。 そして、2代将軍徳川秀忠と3代家光においても、徳川

      幕府の安泰のために、3代家光の妹勝姫を時の天皇に嫁がせ化粧料として一万石

      を加増し公武合体を勧めたり、十八条の武家諸法度の制定、将軍家争いの元凶と

      なりかねない、3代家光の弟、駿河大納言徳川忠長の廃絶や由比小雪事件の平定

      など、人情や事実より幕府安泰のための政略を重視していた時期です。


      さらに、足利家の威光が全国の武家間にまだ残っているこの時期に、幕府が足利

      家嫡流の喜連川家を取り潰すことなど出来なかったのである。

      よって、3代喜連川尊信が本当に「発狂の病」であっても、他藩の例にならい改易

      とはせずに喜連川家の存続を謀ることは、幕府安泰のための最善策であり、喜連

      川家の処置を誤れば、徳川家は先の鎌倉幕府における執権北条高時の北条家の

      二の舞になる危険さえあったのです。



      徳川幕府の安泰を計るべく、制定し間もない幕府の「武家諸法度」を重んじながら、

      前室町将軍家の嫡流となる喜連川家の事件を安全に処理すべく、この事件の評定

      結果は、時の大老酒井讃岐守忠勝を中心とした4人の老中達と4人の大身旗本、そ

      して高家筆頭の吉良義冬によって事件の調査前に幕府安泰のための政略として、

      決められていたものと思われる。 しかも、当時、幕府の高家&旗本には足利家から

      分かれた三河足利党である今川・吉良・畠山・一色・品川・高力・西条・木田・入野・

      細川家など十数家と岩松家(男祖は足利、女祖は新田)と新田系旗本(新田は足利

      義国を家祖とする)など喜連川一色家の親族家と家臣筋家が多数あったのです。


      そして、この事件の調査に入った御上使は甲斐庄喜右衛門(幕府御弓組頭で4000

      石取り大身旗本.、楠木正成の子孫)、野々山新兵衛、加々見弥太夫の3人だったと

      記述されていますが、この御上使3名の記述は、最後の喜連川藩主足利聡氏の

      『喜連川義氏家譜』の江戸市ヶ谷の月桂寺に問い合わせ、記録した事件記述では、

      御目付け2人となり、御目付2名の名前が明らかに異なっています。 なお、評定に

      加わった幕府最大の権力者、大老酒井讃岐守忠勝と、その実弟であり、評定役の

      高家酒井忠吉と高家吉良義冬公(40歳)は姻戚関係にあります。 つまり、高家吉良

      義冬の正室は高家酒井忠吉の娘なのです。  すなわち、酒井家と吉良家の親族と

      なる喜連川家筆頭家老一色刑部が主犯であると万姫と草履取り十三郎・浪人「高野

      修理・梶原平左衛門」と五人の百姓達が訴えでたわけで、彼等(大老酒井忠勝・忠吉

      兄弟と足利家親族吉良義冬)がそのまま鵜呑みにしたとは考えられないのである。


      彼等は事前に、一色刑部から喜連川家の内情等を聞き及んでいたことは十分に考え

      られることです。 一色刑部の件で、親族である大身旗本幸手一色家と高家吉良家

      が幕府内でそれなりの動きを見せたことも十分考えられ、吉良家は徳川家が松平姓

      であった三河時代より姻戚関係にあったことも考慮すべきで、

      つまり、喜連川において、一色刑部と幕府の御上使との間に事前打ち合わせがあっ

      た可能性は十分にあり、否定できるものではないのです。幕府御上使は、慶安元年

      (1648年)7月11日に江戸を発ち、同月17日には江戸にて調査の結果報告が終了し

      ています。 わずか7日間で江戸と喜連川を往復し調査を終了しているのである。


      そして、4千石の大身旗本甲斐庄公(楠木正成の子孫)が往復早馬を飛ばして調査

      を行ったとは思えません。


      事件後の万姫と五人の義民の帰国日数として、喜連川町誌の「喜連川騒動の顛末」

      によれば、十一月二十三日に帰国の途につき、十一月二十六日に無事帰国となって

      いますので、片道3日間ですので喜連川滞在に約1日、往復の移動に6日間といった

      ところでしょう。 わずか、一日の大変スムーズで形式的な現地調査であったことが

      伺われます。 そしてなぜか、万姫の草履取り十三郎は、万姫を江戸に残し喜連川

      に先に帰り途中、一色派の家臣に切殺されたことになっております。草履取りであれ

      ば最後まで万姫に従うのが当然ではないでしょうか?  また、江戸の池之端には

      当時、藩祖足利国朝の姉で豊臣秀吉の側室となった嶋子が秀吉の死後、ここに庵

      を構えており、存命でしたので、万姫はここに滞在していても、しかるべきではなか

      ったか?


      なぜ、評定中、忠臣で元重臣の高野修理が、浪人したとはいえ同じ池之端の町名主

      「大屋」に滞在し、同じく浪人中の同士であり、元重臣の梶原平左衛門が旗本預かり

      であったのか?、疑問のつきることがない『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」とし

      ての記述内容ではないでしょうか。


      また、当時の高家吉良家当主は吉良義冬(40歳)で、この家督を継いだのが忠臣蔵

      で有名な吉良上野介義央です。 この事件の後に吉良系一色家が起きており、当主

      は一色刑部と言い、吉良殿弟とあります。 どうだったのでしょう。 大名旗本預かり

      となった一色左京(一色刑部の長子)の年齢(30歳前後)を考えるとほぼ一致してし

      まい、権力さえあれば系図だっていいかげんな時代です。 あの忠臣蔵で吉良上野

      介義央が「おかまいなし」であった理由まで、うかがい知れる内容ではないでしょう

      か。 土井利勝、春日局や天海上人の死去後のことですから、当時の幕府内での

      酒井家と吉良家の力は絶大なのです。


      さらに、天海上人や春日の局と共に、徳川家康公から将軍家3代のブレーンであり、

      幕府の基礎を築いた、喜連川一色家の同族「黒衣の宰相」と言われた金地院崇伝

      (こんちいんすでん)(一色崇伝)の動向は、どうであったか? 彼の義兄弟に一色

      範勝(幕府旗本)の存在もある。極めて近い親族、幸手一色家もあります。この時代

      には、もはや「いくさ」はなく、幕府内での勢力(政治力)は、同族関係の親交強化に

      もあったことも考慮すべきである。



      一方、戊辰戦争時の官軍により評定された二階堂親子の謀反事件も評定結果は

      調査前に決まっていたと言えますので、2つの事件は、「評定前に事の真偽に関

      わらず評定結果が決まっていた」とゆう点で共通するといえます。 この時の薩摩・

      長州・土佐藩・佐賀藩を中心とする官軍は、江戸に到着した時点で軍用金不足に

      陥っており、西郷隆盛と山岡鉄舟による下交渉と勝海舟との会談により幕府およ

      び徳川将軍家(慶喜公)と和議することにより、江戸城の無血開城に成功した時期

      でもあり、時の将軍徳川慶喜公の実弟である12代喜連川(足利)縄氏公を罪人に

      することは、足利一族と徳川家をわざわざ敵にすることとなり、幕府の団結を強固

      にすることになるので倒幕を困難にすることとなり戦略上好ましくない事も伺い知

      れる事です。


      地方に住み情報に暗い喜連川の二階堂親子は、これを読めなかったのである。

      「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」の381番の文書には以下の判決記録が

      残されています。


      慶応四年(1868)八月十三日 二階堂事件

      「旧藩士二階堂主殿助父子誅□一条取調書 従五位足利聡氏」

        (以下各自の口書内容は省略)

        さらし首   二階堂主殿輔(28歳)

        死罪       同 量  山(54歳)

        死罪       同 邦之助(18歳)

        死罪     小 貫 貫  作(41歳)

        死罪     横 山 将  監(50歳)

        死罪     松島村源五郎(27歳)

      (上は東京大学史科編纂所所蔵文書)


      つまり、江戸城無血開城は、当時の武家間の常識ではうかがい知れない官軍

      の財務的情勢と尊皇攘夷派である水戸家出身の将軍慶喜公の心情が関与して

      いたのである。 余談ですが、江戸城無血開城の立役者は勝海舟が有名ですが

      、歴史を知る者の間では、山岡鉄舟であることは有名な話です。



      話は喜連川騒動(別名尊信公事件)に戻りますが、事件解決のわずか五年後、

      承応二年(1653年)に3代藩主喜連川尊信は34歳の若さで死去している。

      当時は、現代のように「発狂の病」(精神分裂病)の特効薬はなく、この病気の

      一般的な症状通り、正気と狂気を定期的に繰り返し、この病気の末期症状であ

      る完全狂気状態に陥り死去したものとも取れますが、真実は奇なりで、この半年後

      に発覚し翌年には解決したが幕府体制に激震を起こした、慶安事件と関連付ける

      と、理解しやすい。別の真実が見えてくるのかもしれませんね。