5  <<喜連川一色家の墓の存在と疑問点>>


      この一色家の墓は現在も喜連川足利家の菩提寺である龍光寺内の喜連川家の

      墓の正門前に、筆頭家老の家格を表すがごとく存在しており、古河公方家の筆頭

      宿老で奉公衆筆頭であり足利氏姫の御連判衆筆頭であった一色右衛門佐氏久の

      嫡子一色下野守(前刑部少輔)義久の墓とともに慶安元年の喜連川騒動事件で

      幕府の沙汰により伊豆の大島に流刑とされた喜連川家筆頭家老の一色刑部少輔

      崇貞と泉州岸和田藩主の青山大膳預かりとされた、この嫡子、一色左京の墓石が

      実存している。


      つまり、喜連川家(足利家)の墓の正面に並ぶ、家老家の墓の最前列にある

      一色家の墓の中に、彼等の墓石が建立されているのである。


      これは、明治44年以来、旧喜連川町史編さん委員会が町史にて公示してきたよう

      に喜連川(足利)家の三家老であった一色刑部等が藩主喜連川尊信に謀反を起

      こしたとするならば事件後に幕府と藩主の意に反して、一色刑部親子の墓を喜連

      川家の墓の前に建立することは不可能であり、不自然なことになる。   しかも、

      一色家墓所はこの事件の二年後、慶安三年七月に死去した喜連川家二代筆頭

      家老一色下野守義久の墓石が最古の墓なのである。 なお、初代喜連川家筆頭

      家老一色下野守(前右衛門佐)氏久の墓石は、最後の古河公方足利義氏公と氏姫

      とともに古河徳源院にあったことが『古河市史』に掲載されている古河徳源院過去帳

      にて確認できる。


      つまり、喜連川家墓所正面にある喜連川一色家墓所の存在が、慶安元年の御家

      騒動事件の当事者である、3代藩主喜連川尊信公と嫡子の4代藩主喜連川昭氏公

      が断絶となったはずの喜連川一色家墓所の建立を公然と認めていたことを意味して

      いる。  また、この喜連川一色家墓所の中央にある聖観音菩薩像の右裏に「五郎

      左衛門崇利室」の文字が刻まれている。この五郎左衛門崇利とは伊豆大嶋に流刑

      となった喜連川家三代筆頭家老一色刑部少輔崇貞の実弟、一色五郎左衛門崇利

      のことである。彼が事件後に喜連川家に戻り、喜連川一色家墓所を建立したことに

      なる。


      一色家の墓は、古河公方家家臣として鴻巣御所から一色刑部等と共に上総小弓

      御所に在する足利国朝公を迎えに行き喜連川の地に入った家臣の1人である石崎

      家代々の当主が358年後の現在に至っても、「一色刑部さんはかわいそうだった」

      「先祖が殿様にたのまれた」と毎年塔婆を立て供養している。(石崎家は古河公方

      家からの一色家家臣であったが、慶安元年の一色家断絶により喜連川家直臣とな

      った。)


      同時に、喜連川(足利)家の墓の前にある一色家の墓の存在自体が明治44年に

      発刊された『喜連川郷土史』の「狂える名君」として記述され、初めて日本中に紹介

      された喜連川騒動事件の記述には「歪曲・改ざん」が内在することを公示する証拠

      物件となる。


      一方、事件当時若干15歳であったので、罪を軽減されていたとされる二階堂又市

      (主膳助)は、一色刑部・左京親子や他の家老親子が徳川家光の十三回忌時に

      赦免(江戸の文献『及聞秘録』より)されてからさらに、9〜10年後となる、慶安元年

      の喜連川騒動事件のなんと、23年後となる寛文十一年(1671年)に、4代喜連川

      昭氏公が30歳の時、二階堂主膳助の帰参願いを幕府の老中に出したことにより、

      明治44年の旧喜連川郷土史編さん委員会の喜連川騒動事件記述と昭和52年の

      旧喜連川町史編さん委員会の喜連川騒動事件記述により、現在に至っても事件

      のヒーローとされている尊信派の首謀者であり、当時若家老であった二階堂又市

      がやっと許された記録がある。(『喜連川家由縁書』より)   つまり、この事件は

      当時の幕府と喜連川家にとって「喜連川尊信の狂乱を幕府に隠していた三家老」

      より、「三家老が藩主尊信を「狂乱」として押籠にし、藩政を横専していると幕府に

      直訴」した、二階堂、高野(本当は高(こうの))、梶原等のヒーローとされた尊信派

      家臣の罪が三家老の罪より数段重かったことを意味する。


      実は当時の喜連川家には高野(たかの)姓を名乗る家臣は存在しません。 旧喜連

      川領主であった塩谷家の家臣であったが喜連川足利家の入領により、城下の町人

      となった高野加茂左衛門と、百姓になった高野鴨左衛門の二名は確認できる。

      (「『喜連川町史』資料偏3近世」の古文書「長百姓書上」))。


      また、同資料の幕末期の喜連川家家臣の名簿にある厩番(馬屋番)六石扶持の中

      には二名の高野姓を名乗る家臣が確認できる。いずれにせよ、足利家始祖である

      足利義康の実弟を養子に迎え、足利家執事格となった高(こうの)家の子孫が厩番

      六石扶持にまで身を落としてまで武家であることに、未練を残していたとは考えずら

      い。


      一方、戊辰戦争の時の国老、二階堂親子による謀反事件では二階堂親子は斬首

      、さらし首となり二階堂家は断絶追放となっている。『喜連川町誌』・「『喜連川町史』

      第三巻資料偏 3」より。 

      当時の、「十二代喜連川藩主喜連川縄氏公(十五代将軍徳川慶喜公の実弟)が

      密かに会津藩主(松平家)と結託していると、二階堂親子が維新軍に訴えでたが、

      調査の結果 、その様な事実は無いとして罰せられたのである。


      実は、この2つの事件の評定には、その時代に応じた政略的な共通点があるので

      す。 そして、事件後の喜連川藩内では、それぞれの評定結果とは別に、事件の

      真実を表すかのごとく、天と地ほどの処遇差があったことに注目したい。


      なお、一色刑部の正式名称は一色刑部少輔崇貞である。当然、喜連川家筆頭

      家老であり本人の罪の有無にかかわらず、その職制ゆえに「幕府を騒がせた喜連

      川家の罪」を背負う立場であった。 しかし、一色刑部の嫡子であった一色左京は、

      諸大名家預かりであったのでその後、幕府により何らかの形で再興があった思わ

      れる。 この時期、幕府旗本に一色家は数家あり、幸手一色系・一色藤長系・金地

      院崇伝系・吉良系一色家などがありました。


      諸大名家においても上杉、水野、丹羽、細川、岡部、久松松平家などなど、足利一

      門としてのつてもある。 また、幸手一色家は、江戸時代初期に男子がなく断絶の

      危機を向かえたが、前当主の嫁にやった娘の子を養子として存続し、その後、幕府

      旗本として続き、現代に子孫を残している。(『幸手市史』を参考)


      余談ですが、大名家や幕府旗本の嫡子不在による断絶は、8代将軍徳川吉宗の頃

      には、当主が死んでからの養子縁組が許されるようになったので、このような断絶

      は少なくなったといわれており、元禄の頃のあの忠臣蔵で有名な吉良家と上杉家

      の例は、この始まりかと思われます。