喜連川足利家筆頭家老
  一色刑部少輔崇貞の実弟
   一色五郎左衛門崇利の子孫

  


                           喜連川騒動における一考察(メイン)へ


 喜連川足利家三代筆頭家老一色刑部少輔崇貞は慶安元(1648)年の喜連川尊信公

 事件における幕府の裁定により他の家老達と共に伊豆大島に遠流となった。 長男、

 相木与右衛門(妾腹)は摂州尼崎城主青山大膳亮(幸利・幕府奏者番)御預かり、同

 じく、次男で嫡子の一色左京と三男一色八郎および家族達は、泉州岸和田城主岡部

 美濃守(宣勝)御預かりとなり、先の筆頭家老であった一色下野守義久夫婦と実弟一

 色五郎左衛門崇利も、これに連座して燐藩である烏山の根岸の地にて浪人した。


 その二年後、慶安三年頃迄には一色下野守義久夫婦と一色五郎左衛門崇利に、主家

 である喜連川足利家より異例の帰参命令があり、4代喜連川昭氏公(9歳、生母は一色

 刑部少輔崇貞の養女、欣浄院殿)を後見すべく、喜連川足利家親族となる特殊な御側衆

 (実質家老首座)として仕えていた。(この時、根岸と改姓する)


 その後、寛文十年八月の四代喜連川左兵衛督昭氏公(29歳、母は側室)の異母兄弟

 喜連川右衛門督氏信公(20歳、母は正室)の病死を期に、寛文十一年(1671年)には

 白河城主本多能登守忠義家からの二階堂主殿の帰参を実現させ、喜連川足利家の

 安定をみて後、喜連川城下の上町・本町・下町に3軒の宿屋を開き、根岸丹右衛門店

 「柏屋」を名乗り足利家庶家である一色家末裔となる特殊な商人となる。


 上記の出典は、筑波大学中央図書館所蔵の古文書『及聞秘録』と下記の現さくら市の

 発刊した「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」に編纂された天明八年に書かれた文書

 『小林家代々日記』と一色家墓所の中央にある、慶安三年(1650年)七月に死去した、

 喜連川家、二代筆頭家老一色下野守(前刑部少輔)義久の墓石に刻まれた、「大禅勘

 作胤栄」 そして、墓所中央に置かれた聖観音菩薩像の右裏に彫られた「五郎左衛門

 崇利室」、左正面に彫られた死去年「寛文十二年(1672年)五月」の記録からである。

 つまり、この一色家墓所は喜連川一色家が断絶となった慶安元年より後に作られてい

 ることになる。


   「解説」

   喜連川本町八人長(慶長六年に町割を命じられた八人の家。以降入れ替わった家

   もある)のうちの一軒であり、町年寄でもあった小林家には代々日記があったが、

   天和元年小林吉左衛門久明があらてめて書き残したもの。本町東側の斉藤小七に

   始まり在住町人の出身地・屋敷などを書き上げている。(元宇都宮海星女子学院高

   等学校 非常勤講師 昌山聖子氏)


   「根岸丹右衛門之事

   此人上町出也、此人元ハ当家中一色刑部家老□、尊信公之時有乱、多数浪人有、

   其節ハ山本勘治云、一色殿分地ニして弟也、其時浪人して後根岸住、根岸名字なのり

   五郎左衛門云、帰参して相勤上町ニ住候、又其後町人成、其後根岸連談と申、右衛門

   守様(氏信)□初、又候町人成、上町住候所問屋□□ニテ致浪人致候、其兄山野金右

   衛門屋敷買取申候」


 一色五郎左衛門崇利の帰参と根岸に改姓した理由は特に記録に残されていないが、慶安

 三年五月に隠居中の喜連川尊信公と正室の間に幼い四代藩主昭氏(九歳)の弟氏信公が

 生まれたことにあると思われる。 つまり、二人の父である喜連川尊信公は慶安元年の事件

 評定により幕府公認の狂乱となり引き続き押込とされ、病弱あった。そこで、幕命により四代

 喜連川昭氏公(9歳)の後見人となっていた、白河藩主榊原(松平)式部大輔忠次と三人の一

 代家老達は、氏信公の誕生が新たなお家騒動の種となると、懸念したと思われ、しかも四代

 昭氏公(9歳)の生母欣浄院殿は九年前に死去しており、後見人である榊原(松平)式部大輔

 忠次は、翌年の慶安四年六月に西国の播磨姫路城主として移封となる。 そこで、幼い四代

 昭氏公を生んで死去した生母「欣浄院殿」の叔父であり、喜連川足利家の筆頭家老家の家格

 であり、足利家親族であり、隣藩である烏山の根岸の地にて浪人中の一色五郎左衛門崇利

 が必要となったのである。 一方、慶安元年の事件で幕府により伊豆大嶋に遠流となり処罰

 された筆頭家老一色刑部少輔崇貞の実弟を喜連川家が表立って再び仕官させることは幕府

 が制定しまもない、しかも同族の一色崇伝(金地院崇伝)が草案した「武家諸法度」に触れる

 ことになるため、一色五郎左衛門崇利を足利家庶家と連想させない、平氏系熊谷氏の宗家、

 根岸姓に改姓させることで、異例の帰参を実現したと考察する。


 このことは、慶安元年の事件後であっても一色家の墓所が古河氏姫の菩提寺である臨済宗

 古河徳源院と喜連川家の菩提寺である臨済宗、龍光院(寺)の足利家の墓の正門に存在す

 る特異性と一色家墓所内に「五郎左衛門崇利室」・「寛文十二年」(1672年)と彫られた聖観

 音菩薩像の墓石が存在することからも判断できる。 また、このことは初代古河公方となった

 足利成氏が、幼少時に五代鎌倉公方として再興された時、父である4代鎌倉公方、足利持氏

 と共に死去した一色直兼の養子、一色直明(実は三代将軍足利義満の次男足利義嗣の嫡子

 )の長男であり、鎌倉の臨済宗第一位の建長寺の蔵主であった喜連川(古河)一色家の祖

 である一色蔵主(右衛門佐、従五位下 母は三浦氏)を還俗させ、鎌倉一色家を再興し、鎌倉

 公方家奉公衆筆頭としたことにも、関係しているように思える。 そして、この古河と喜連川に

 おける一色家の墓の存在は、徳源院(古河)と龍光寺(喜連川)の大檀那であり、このことを

 知る足利(喜連川)家の意向によるものと思われる。


 その後、根岸五郎左衛門崇利が名を丹右衛門連談と改めた後、城下の商人となった理由は

 喜連川(足利)家の意向はありがたいことではあるが、将来にわたり一色家が喜連川家家臣

 としてあることは、本来幕府の慶安元年の事件評定方針と異なることであり、喜連川家の安泰

 に影を残すことも、事実であるので名も改め商人となることにより、幕府の「武家諸法度」にふ

 れることなく城下にあって喜連川家に仕えていたと考察する。


 また、天保十三年の喜連川足利家臣団の家禄&役責取り決めを参照すれば伺い知れる

 ことですが、国老職の二階堂家でさえ200石でしかなく喜連川家の家臣達の家禄が少なす

 ぎるのである。

 「武士は食わねど高楊枝」とはまさに、このことでしょう。 4800石の実領に対し喜連川藩主

 の十万石格と言う家格を維持するための、やむおえぬ家臣団の微禄である。


 根岸五郎左衛門の姪の子である4代喜連川昭氏公の嘆願により、慶安元年の事件の21年

 後にやっと幕府に許され「白河藩預かり」から帰参(『喜連川家由縁書』より)した、家格も下

 である二階堂主殿助(又市)と共に200石程度の家禄を得て貧乏するよりも、喜連川足利家

 の親族でありながら藩内の実質的主要産業となる宿屋商人であるならば年貢を払う必要も

 無く、しかも優遇的な商いが出来たはずで、喜連川足利家の家老職であるより明らかに裕福

 であると判断したと思われる。


 根岸丹右衛門こと一色五郎左衛門は、兄一色刑部少輔屋敷と山野金右衛門屋敷などを

 もって、喜連川城下にて宿屋を営んでおり、江戸時代の喜連川の町は火災も多く、史料が

 少ないが、天保期の古記が残っており、下町柏屋丹右衛門・上町柏屋勇次郎の新田開発

 に関する古文書、また、喜連川本町の町並の一部を記録した住宅地図には「丹右衛門店

 平宿清水屋末吉」の一軒が記録されており根岸(柏屋)丹右衛門の3店舗目の宿が確認

 できます。 (『喜連川町史』第三巻資料編3近世を参照) 

 よって、根岸(柏屋)丹右衛門は喜連川城下の上町、本町、下町のメイン通りの全てに宿屋

 をかまえていたことが確認でき、同時にせまい城下町のことですので、3軒の宿屋を開くこと

 は大変なことで、当然親族で,、主家である喜連川家からの支援があったことも理解できる。


 また、一色五郎左衛門こと根岸丹右衛門連談は家業は使用人にまかせ同族であり姪の子

 でもある4代喜連川昭氏の趣味に連れ添い城下の川で魚釣りなどを楽しんだり相談相手と

 して戦の無くなった江戸時代を堪能していたのでしょう。 この喜連川公(御所様)の釣り好

 きの件には、逸話が残っており、あの伊達藩の参勤交代の行列でさえ、橋下で釣りを楽しむ

 御所様(喜連川公)を見つけると、その釣りが終わるまで「御所様の頭を越えることは恐れ多

 い。と橋の手前で待機した。」とか、「喜連川領内を迂回し、宿泊費用を節約した諸大名には

 、参勤交代の勤めのない喜連川公(御所様)が江戸城内にわざわざ出向いて皮肉を言って

 いた」とかが伝えられています。

  また、「奥州街道を参勤交代する東北の諸大名が、喜連川宿で宿泊し滞在費を落とすよう

 、藩主共々、釣りをしていた。」などとも陰口をたたく輩もあったそうです。


 なお、宿屋が田畑を持つことは利に適っており、古文書により新田開発を行っていた前記の

 根岸家の二人は、いずれも当家(屋号柏屋)の過去帳に記録された人物で、上町の根岸(

 柏屋)勇次郎の方が弟になります。 そして、喜連川城下の根岸家当主は代々根岸丹右衛

 門を名乗り現代に至っており、途中喜連川足利家家臣団の入国の時、清く身を引いた旧塩

 谷氏の家臣であった小林出羽守が、商人になり町役を代々勤めた小林家との親交もあり、

 小林家の嫡子が無い時は二度に渡って根岸(一色)家から養子が入ったとも、「小林家代々

 日記」には記録されております。


 旧喜連川町誌編さん協力委員であった故小林正治氏は、もとをたどれば同族であったので

 ある。 「喜連川騒動の顛末」の記述に疑問をいだき『喜連川町誌』編さん協力委員を途中

 辞職した小林正治氏の心情が伺いしれます。


 事件の真実は『及聞秘録』『喜連川義氏家譜』に残されていたのです。



 一方、明治期から昭和中期を生きたの根岸家当主、根岸丹右衛門元吉翁は、栃木県県北

 地区から福島県南部、茨城県北西部において国の専売事業に関わっていた。 日露戦争

 により南満州鉄道が日本の権利下におさまり、関東軍が旧満州国を制定するを機会に、旧

 財閥(有)鈴木商店の大番頭、金子直吉に協力し、同社に入社、旧満州国に渡り旅順(現在

 の大連市の旅順地区)の地において、農産物や塩・たばこの専売事業に係わり、財閥(有)

 鈴木商店の解体をさきがけとして、栃木農場を開設し満州国内に27店舗の支店を設け時の

 満州国関東軍の軍事食料の35%と中国人・朝鮮人・日本人の分けへだてなく、旧満州国民

 への農産物調達供給事業を行いました。  栃木農場支店長の多くは中国・朝鮮人であり、

 日本人支店長は10数名だけでした。


 日露・日中戦争(もともと支那事変と言われていた。後にアメリカの参戦により太平洋戦争

 となる)は、戦争の勝組み国が都合よく歪曲させた歴史教科書では一方的な日本軍の中国

 ・アジア諸国への侵略戦争とされています。しかし、史実は違います。当時清国の独裁政治

 に中国人民は貧困の一途をたどり苦しんでおり、地方は軍閥といわれる地方勢力により無法

 状態で国内は荒れ果て餓死者も相当数出ていました。 さらに、ロシアは清国の南満州鉄道

 近郊と旅順港の租借権を清国から武力で勝ち取り、日本国への進攻をも謀っていたのです。


 そこで、日露戦争が勃発しました。

 旅順港沖におけるロシアバルチック艦隊と東郷平八郎指令長官率いる日本国総合艦隊との

 戦いに奇跡的に勝利した日本国は、さらに脅威となるロシアの軍港旅順にある要塞を乃木

 希典少将率いる歩兵第一旅団(一万五千人)が僅か五千人たらずになるまで戦い、勝ち取

 ったのがあの有名な203高地です。203高地は、旅順港の程近くにある標高203mの丘陵

 です。 ロシア側にも相当の被害が出て、ポーツマス条約によりアメリカの介入を得て、ロシア

 と和解し、ロシアの持っていた南満州鉄道と、その近郊地域そして旅順港およびリャオトン半

 島の租借権を正式に清国から譲受け、かくして、極東アジア(日本国と清国と朝鮮半島)のロ

 シア(白人帝国主義国)からの軍事的脅威と人種差別的脅威は拭いさられたのである。


 また、これを機会にロシアから支配されていたフィンランドも日本国からの軍事援助を受けロ

 シアからの独立を勝ち取ったのである。フィンランドの独立記念館には、今も日本国から援助

 輸出された武器兵器が展示されております。


 一方、清国の政治に不満をもっていた中国の民主主義を目指す国民党指導者孫文は清国

 の政治犯罪者として追われ、日本の東京に逃れていました。 つまり、当時は東南アジア及

 び清国の南部を侵略植民地としていた人種差別の根強い植民地主義のヨーロッパ列強国

 (英・仏・蘭・米)の脅威に、清国はなんの対応も出来ないほど弱体化していたのです。


 日本国においても、人種差別の根強いヨーロッパ列強のアジアの植民地化は脅威であり

 このままでは、いずれ、ヨーロッパ白人支配圏国に支配され兼ねない中国国民と日本国民

 を守るべく、民主主義(三民主義)を目指す中国国民党指導者孫文と日本国が手を組み、

 清王朝による独裁政治とヨーロッパ白人支配の脅威から中国国民と日本国民及びアジア

 諸国の開放を目指しました。そして、まずは中国国民党(孫文)と同盟し満州地区を制定、

 次に清王朝からの中国全民の完全開放を実現し、そしてアジア諸国からのヨーロッパ白人

 支配権諸国の排除と植民地化の歯止めを目指したのです。


 一方、中国の民主主義政権をめざす孫文を指導者とする中国国民党軍も、満州における

 関東軍の進攻を機会に、国共合作(共産党員であっても個人として入党を認める)を行い

 勢力を拡大し、軍閥袁世凱を戦力に加え清王朝からの中国人民の開放戦争を清国国内に

 繰り広げ清王朝を倒し、中華民国臨時政府を樹立ました。

 清王朝最後の皇帝溥儀はこの時、日本の東京に亡命しており、昭和天皇及び時の内閣

 は国賓として丁重に扱っており、後に清皇帝溥儀は、満州出身(漢民族)の皇帝でしたの

 で満州国の皇帝としました。これにより、ヨーロッパ白人支配国の人種差別思想に基ずく、

 アジア植民地化体制への歯止めとしたのである。


 ところが、満州国と中華民国の国境付近(北京北部郊外)での盧溝橋事件(1933年7月

 7日の中国国民党軍側からの銃撃)の勃発と同月25日の郎坊駅での日中軍の衝突、同

 月26日広安門事件(日本軍を中国軍が銃撃)、同月29日通洲事件(中国人部隊約3000人

 による日本人留守部隊約110名と婦女子を含む日本人居留民420名を襲撃し約230名が

 虐殺された事件)があり中華民国側は120万円の賠償金を支払ったが日本国民の反中国

 人感情も高まってしまっていったのである。


 支那事変のトリガーとなった盧溝橋事件は当時の中国共産党により仕掛けられた陰謀

 事件で、彼らは日本軍(関東軍)と中国国民党軍の双方にゲリラ攻撃を加え、日本と中国

 (中華民国臨時政府軍)が戦争になることを望んだのである。(近年この証拠資料が元中国

 共産党員により公開されました。)しかし、実際のところ、現中国共産党政府はこれを認めて

 おりません。国策による歴史の歪曲を通しているようです。日中の将来を考えるなら、当然の

 こととして当時の資料を公開すべきです。


 一方、戦後、中国共産党政権に都合が良い歪曲した歴史教育をしてきた手前、なかなか公開

 できない理由は理解できますが、毛沢東・周恩来など、歴代の中国共産党主席は本来国共合

 作により三民主義孫文(国民党)の配下であった時期もあります。最大のマルクス・レーニン共

 産主義国家、ソビエト連邦の崩壊後久しい今日、当時の資料公開はまだ無理でも、そろそろ

 歪曲した歴史教育の段階的な修正時期に入ってもよいのではないでしょうか。


 孫文(国民党)の目は100年先を見ていたはずのです。少なくとも、現在のような共産党

 独裁国家は目指しておりませんでした。2度に渡る国共合作のもう一つの意味を理解してい

 るはずと信じるものであります。 あくまでも、「共産党員であっても個人としてなら、国民党

 への入党を許す」により、国共合作が成ったのですから。


  余談でした。


 日本国政府と中華民国国民党(孫文の後継者蒋介石)は本来、双方望まぬ形ではあった

 が満州国関東軍(日本軍)と中国国民党軍(中国軍)の戦闘状態が、日中相互の正式な

 宣戦布告のないままに、継続的な戦闘が開始されたのです。

 実は、この戦闘の始まりは、中国共産党軍による日本と中国(中華民国)軍を先頭状態に

 誘導するため、双方に攻撃を仕掛けたことが原因であったことが、示された史料が元中国

 共産党軍幹部であったが、共産党をはなれ中華民国(台湾)に渡った人物から公示され残

 されています。これが、支那事変の始まりであり、戦後には日中戦争と言われた戦争です。


 また、支那事変(日中戦争)後の東南アジア諸国への日本軍の進攻(太平洋戦争)は、現地

 の民衆にとって、ヨーロッパ白人支配諸国による植民地支配からの開放軍として歓迎されま

 した。 これは、現在この地域を観光された日本人の方なら体験された方もいるかと思いま

 す。 現地のお年寄りの方が、昔覚えた日本語で、昔を懐かしみ日本人にはお世話になった

 と話をしてくれます。旅先で3才の息子が道で転んだのを見て「大和魂だぞ。ガンバレ!」と

 声をかけてくれたのを思い出します。


 この戦争は、その後アメリカ合衆国の参戦により太平洋戦争へと変って行き、戦域の拡大に

 より日本軍はじゅうぶんな軍事力を適所に集中させることが難しくなりました。 これを機会に

 当初、日本軍に制圧されていた、共産主義を目指す人民開放軍(毛沢東)の勢力が拡大し、

 中国農村部からのゲリラ的抵抗が活発化し、中国国民党軍を台湾においやり、日本国の敗

 戦へと向かっていったのである。 日本国と一時同盟し共に中国人民開放軍に破れた、民主

 主義(三民主義)を目指す中国国民党軍(孫文の死去後は蒋介石が指導者)は、現在の台湾

 に逃れ小さいながら中国人民による民主主義政権、中華民国を樹立しました。中華民国(台

 湾国)は現在も日本の友好国です。もっとも共産国である中華人民共和国は現在も台湾の

 独立を認めておりません。


 当時の世界の人種差別については歴史の通りです。軍事力を正等化する思想は持ち合わ

 せてはおりませんが、当時のアジア系黄色人種圏国がヨーロッパ白人支配諸国に対抗する

 手段はこれしかなかったのです。この戦争をもって世界の人種差別思想の転換期を迎えた

 といっても過言ではないかと思います。そして、時代は民主主義諸国と共産主義諸国による

 冷戦期に突入していったことは戦後の歴史の示す通りです。


 よって、日本国は敗戦国となり世界の歴史において、勝者国の都合により戦犯国にされて

 おりますが、実は、私達の身近な先祖達は望む望まないにかかわらず結果として、現在の

 アメリカ合衆国にも負けない、世界の人種差別問題と平和に大きく貢献した誇り高い国を

 背負っていた人達であったことを忘れないでほしいのです。


  01. 人種の平等と世界平和、公正な世界を目指した日本

  02. 本当の歴史、日本が世界に誇れるもの

  03. 韓国の歴史捏造を暴く

  04 朝鮮半島の本当の歴史

  05 日本人が世界に誇るもの02

  06 大東亜戦争により日本がアジアに残した功績

  07 今もインドで歌われる、日本兵を讃える歌

  08 大東亜戦争、ビルマ独立と日本との関係

  09 「ザ・レイプ・オブ南京」の検証 その1 その2

  10 大東亜戦争開戦の真実 その1 その2 その3 その4

  11 南京大虐殺と従軍慰安婦問題の検証 その1 その2 その3 その4 その5

                             その6 その7 その8 その9 その10

                             その11 その12 その13 その14 その15

                             その16

  12 支那事変の記録 その1 その2 その3

  13 真珠湾攻撃の5ヶ月前のアメリカ大統領ルーズベルトの日本本土攻撃計画、 その1

                                                     その2

  14 「日本人が知ってはならない歴史」 その1 その2 その3 その4 その5 その6


 いかなる理由があれ、人をその手で殺してしまった自責の念により本当の歴史を語りださ

 ない、誠実なおじいさん達を理解してあげていただきたいのです。


 そして、当時の中国人民の貧困と惨状を見た祖父、根岸丹右衛門元吉は、「国の繁栄は

 教育にある」として満州国内の小学校と故郷の喜連川町小学校の設立にも尽力をつくしま

 した。現喜連川小学校の校長室には学校設立当時の関係者写真に祖父、根岸元吉の若き

 頃の姿が見れます。火災による小学校再建資金として三万円と喜連川町の全ての小学校

 の校舎正面には、根岸元吉が満州国における栃木農場設立十周年記念に寄付(昭和十三

 年十月)した二ノ宮金次郎の大型の像が現在も残されております。


 また、国には新型戦闘機3機を寄付しており、祖父元吉が敗戦後に満州国からのがれ持

 ち帰った故杉山元陸軍大臣の感謝状により明白です。 その他、株式会社「栃木農場」と

 して数十機の寄付をしたことも、当時の栃木農場関係者から確認しています。 なお、この

 頃の新型戦闘機の値段は一機三万五千円と聞いています。


 祖父根岸元吉の国や喜連川町への思い入れが伺いしれます。終戦後には、満州国から

 帰国し、栃木県の県政向上のために、栃木県旧議員会館である「むつみ会館」を寄付し

 ております。これも感謝状が残っております。 そして、日本国の敗戦により満州国での

 祖父根岸元吉の私財は、すべて無くしてしまいましたが、当時、現栃木県日光市鬼怒川

 温泉の地に土地38町歩を購入していたので 、ここに栃木農場を再開し果樹園事業から

 再出発しましたが、昭和22年の農地解放政策により土地35町歩を当時の従業員に開放

 するに至ったのである。当家には当時の農地開放令状が残っております。


 日本には、古来「たわけ者」・「このたわけが!」といった「田分け」とゆう行為をバカ者の

 することとして国民の間ではいい伝えられていた筈です。


 しかし、戦後すぐの社会党内閣(共産主義色が強い内閣)により、農地解放・財閥解体

 といった愚民受けする政策として、「国の軍国主義化を防ぐ」とゆう大儀名分にそって、

 誤った政策として発令されたのである。現在の日本農業の実情を見れば明白です。農

 地解放政策により土地を得た多くの農家は豊かな生活を求め、反農および離農の道を

 進んでおります。結果として日本国の食料事情は、大型農場を持つ諸外国からの輸入

 に頼らざるおえない現状と、国内の弱体化した農家の生活保護のために、貴重な税金

 を投入するとゆう愚策のジレンマに国政は陥っているのです。


 国が農協などを通して生産者から国産米を高価で買取り、低価で販売する政策や諸外

 国から輸入される農産物に高い関税をかけ、国産農産物の価格とのバランスを取らせる

 保護主義政策もそれです。私達は本来、現在より安く農産物を購入出来たはずなのです。

 時の農地解放政策は、現在の国の財政危機と消費税値上げ問題・戦争責任問題など

 様々な敗戦国特有の財務問題と農地の宅地化は自然破壊など様々な問題を引き起こし

 ております。


 共産主義者(身近な個人主義のみ求める者)による愚策、農地解放政策により、日本

 国内での企業経営型広域農場としての栃木農場の再起計画は祖父根岸丹右衛門元吉

 の無念と終わったのである。


 祖父元吉が良く口にした言葉があります、「商いのコツは需要と供給にあり、薄利多売

 により広く根気よく、素直な心をもって国民に貢献することが、商人としての成功の秘訣

 である。」でした。少々高飛車にも聞こえるようですが、昔の人であり、こういった生まれ

 の方なので、ご勘弁ください。昭和40年代でしたか。祖父元吉に多くの感謝状をくだされ

 た方の一人、旧陸軍大臣杉山元氏のピストル自殺の記事が週刊誌に掲載された時、

 私は小学生でしたが祖父元吉から購入の使いに出されたことを思い出します。 祖父は、

 真剣に記事を読み、仏壇に手を合せていたことも思い出されます。


   源義家を祖とする足利家系図(喜連川一色家まで)



                                   記)  平成18年9月20日(水)


                             321-2522
                               栃木県日光市鬼怒川温泉大原270番地
                               喜連川一色家嫡孫     根岸 剛弥



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