足利国朝公が喜連川に移った時
     従った家臣達

  


  足利国朝公が上総より喜連川の地に移つた時、従った家臣の氏名を列挙します。


  (古)一色刑部       (古)高修理頭(亮?)  (総)椎津 某     (古)山名豊前守

  (古)伊賀金右衛門    (総)里見主馬      (古)印東内記    (古)山名采女

  (古)伊賀伊勢守     (古)逸見三郎      (古)相馬 某     (古)渋江弥五郎

  (古)堀江彦右衛門    (古)国井 某       (古)石崎 某     (古)海老名 某

  (古)相木年(与)右衛門 (古)後藤内蔵助    (古)大草茂右衛門  (古)小俣 某

  (古)高城左衛門     (総)浅沼友左衛門   (総)大谷 某     (総)江戸 某

  (古)鴻野修理       (古)福田 某      (古)高塩 某     (古)水戸 某

  (古)芦屋 某       (古)梶原平右衛門   (古)星 某      (古)土屋織部

  (古)石塔 某       (総)中村四郎兵衛   (総)佐藤 某     (古)柴田 某

  (?)武田一郎右衛門  (総)高橋 某      その他2名

   

 以上40名である。 

***************************


 < 解 説 >

 高修理亮の家名は、鎌倉時代より足利家代々の執事職の家ですので、高師直(こうのもろ
 なお)・師泰(もろやす)兄弟の子孫でしょうか? 『古河市史』・『喜連川文書』を参照します
 と古河連判衆では一色刑部少輔義久(一色右衛門佐氏久の嫡子)を筆頭として2〜3人後
 に高修理亮氏師(こうのしゅりのすけうじもろ)の名が確認できます。高大和守は同一人物
 と判断できます。

 さらに、「二代喜連川(足利)頼氏の子、義親の将軍お披露目の件で、老中本多正純から、
 古河鴻巣御所に残った氏姫親子の近習であった高修理亮に宛てた文書」と「徳川秀忠の
 側近で奏者番であった土井大炊頭が古河鴻巣御所の足利氏姫から徳川将軍家への歳暮の
 礼状として、古河住み近習の高修理亮に宛てた文書」が掲載されている。

 つまり、「狂える名君」「喜連川騒動の顛末」の登場人物の一人である老臣高野修理とは
 この高修理亮のことであり、『寛政重修諸家譜』の慶安元年の喜連川騒動事件記述にある
 高四郎左衛門のことになります。

 そして、このことから、この高修理亮(四郎左衛門)は、「高修理亮(助)氏師」の子と十分判断
 できます。なぜ、高(こうの)修理亮が高野(たかの)修理になってしまったのかは、明治44年
 執筆の「狂える名君」と昭和44年執筆の「喜連川騒動の顛末」の基礎資料であり、万姫のお供
 をしたとされる五人の百姓の一人である飯島平左衛門(佐野越後)が子孫のために、家伝書
 として残した『喜連川御家由縁書』(佐野家文書)を解析することで判明しています。
 『喜連川御家由緒書』(筆者訳)を参照ください。

 又、古河公方家の足利氏姫を大檀那とする古河鴻巣の徳源院過去帳(『古河市史』参照)
 では初代喜連川藩主足利国朝と共に一色下野守の戒名が記録され、さらに4代喜連川昭氏
 と共に一色刑部少輔崇貞の戒名が記録され「大嶋にて逝す。」と記述されております。

 又この過去帳より、一色下野守の死去年は慶長六年(1602年)十二月で一色刑部の死去年
 は明暦二年(1656年)七月であることが確定します。

 これより、一色下野守は死去年から古河御連判衆の筆頭であり足利家親族であった「一色
 右衛門佐氏久」本人であり、一色刑部少輔義久の父であると判断できます。足利将軍家が
 没落し、古河公方家が喜連川領主となり正式に足利家の敵流となった時、氏久は「下野守」
 となったと考えられます。

 そして、氏久の嫡男は、三河一色郷以来の一色家本家の歴代官位である「刑部少輔」をいた
 だき、一色刑部少輔となったと思われる。
 (喜連川文書の松平忠次や神尾元勝から一色刑部少輔・二階堂主殿頭(助)への文書を
 参照)

 また、古河鴻巣の徳源院に四代藩主喜連川昭氏公と共に、一色刑部少輔崇貞を弔った人物
 は、誰だったのでしょうか?一色刑部少輔崇貞の戒名の中には、足利家代々当主の戒名に
 多く使われる「山」の字が戒名の同じ場所で使われています。喜連川昭氏は当然、一色刑部
 少輔崇貞よりあとに亡くなっていますので、このことは彼または喜連川家の意向であったこと
 が伺えます。

 なお、足利氏姫の戒名は「徳源院殿慈峰晃公大禅定尼」で、その父である足利義氏の戒名は
 「香雲院殿長山周善大居士」で彼らに仕えた、一色下野守氏久の戒名は「松香院圭峰周玄居
 士」です。一色下野守氏久の戒名の中には、氏姫の戒名と共通する「峰」の字、義氏の戒名と
 共通する「香」と「周」の字が確認でき、彼と足利家当主との関係が見受けられます。

 また、初代喜連川藩主足利国朝の戒名は「法常院殿球山良公大禅定門」で、二代藩主喜連
 川頼氏の戒名は「大樹院殿涼山蔭公大禅定門」で三代藩主喜連川尊信の戒名は「瑞芳院殿
 昌山桂公大禅定門」で四代藩主喜連川昭氏の戒名は「令徳院殿孝山恭公大禅定門」であり
 これに仕えた一色刑部少輔崇貞の戒名は「翠竹院松山宗貞居士」で、祖父一色下野守氏久
 の戒名と共通する「松」の字が使われ、藩主の戒名との共通点は「山」の字と、その字の使わ
 れる場所に何か意味があるのかも知れません。

 喜連川家菩提寺「龍光院」の 一色家の墓の写真でも一色刑部少輔崇貞の戒名が確認でき
 ます。

 余談ですが「龍光院」は藩祖足利国朝・頼氏兄弟の父足利頼純(小弓公方)の法名で戒名は
 「龍光院殿全山貴公大居士」です。やはり「山」の字が同じ場所で使われています。

 また、この史料は、昭和52年発刊の『喜連川町誌』の年表にある「1594年文禄三年、国朝
 の遺臣等、上総より来る。一色下野守、椎津下総守(後の二階堂)等24名。」の記述の間違
 いを示すことになります。

 前年の文禄二年(1593)、国朝は、朝鮮出兵に応じたが芸州海田羅にて病死しているので、
 この24名は、「上総」からではなく、「芸州(今の広島)海田羅」から帰ってきたことになり、この
 史料の40名とは異なることが理解できます。

 また、この椎津下総守は、後の慶安元年(1648)の事件で一色刑部・柴田久右衛門と共に大
 嶋に遠流となった二階堂主殿の父であることも、この時、白河藩主榊原式部大輔忠次にお預
 けとなった二階堂又市(15歳)は、椎津下総守の孫であることも判断できる。

 そして、この40名の中には、一色家・高家・石塔・山名家・梶原家・椎津(二階堂)家・逸見家
 ・武田家・海老名家など、『太平記』においても馴染み深い家名の家臣が目立ちます。

 一方、事件後に「付け家老」となった三家老家の内、渋江家・大草家の家名は確認されますが
 黒駒家の家名がここでは確認できませんが。黒駒蔵人は、逸見山城守、佐野甲斐守と共に
 慶長元年(1596年)の「松林山欣浄院専念寺」の再興に係わった人物で古河公方家家臣です
 ので、黒駒七左衛門も古河系と判断できます。

 渋江弥五郎は、古河連判衆で徳隠軒(渋江景胤)の子と判断できます。 里見主馬は、
 小弓系(総)やはり里見家の関係でしょうか?

 椎津某は、後の二階堂主殿で、「喜連川騒動の顛末」における二階堂主殿助又市の父親
 であり、『及聞秘録』では、事件の三家老の一人で、一色刑部、柴田某とともに、喜連川藩
 の安泰を願ってか、武士らしく「武家諸法度」に従い大嶋に流刑になっております。しかし、
 古河公方家の菩提寺の過去帳には、二階堂主殿、柴田久右衛門、伊賀金右衛門の名は
 ありません。

 石崎某は、一色家の墓を代々供養していただいている石崎家のご先祖です。現喜連川の
 石崎さんから「一色刑部さんと共に古河から喜連川に入った。」と確認しています。

 柴田某が柴田久右衛門で伊賀金右衛門は当人、相木年右衛門は一色刑部の長男(妾腹)
 相木与右衛門の母方の義父でしょうか?。事件当時、高野修理に騙されたと思われる梶原
 平右衛門、当人の名も確認できます。

 梶原平右衛門は「喜連川騒動の顛末」では、「梶原平左衛門」とされています。しかし、この
 「喜連川騒動の顛末」の元である『喜連川家由縁書』では、梶原平右衛門と記録されており
 ます。すなわち、この相異の原因は、「喜連川騒動の顛末」の執筆者の誤記となります。

 喜連川騒動の実行犯、老臣高野修理の名前がありません。似かよった名前に高(こうの)
 修理亮・鴻野修理の名がありますが、事件まで生きていれば老臣ですのでどうなんでしょ
 うか?やはり、家名が異なりますが「喜連川騒動の顛末」より古河系の家臣と判断できま
 す。

 また、高野の読み方が「たかの」なのか「こうの」かは微妙です。

 一方、高野修理は直訴成功の可能性を謀るべく江戸へ向かうため、自ら脱藩し浪人したと
 「喜連川町誌」昭和52年(1977年)編さん版の「喜連川騒動の顛末」で記述されています。

 しかし、『及聞秘録』・『喜連川町史』第三巻資料編3近世の『喜連川義氏家譜』(東京大学
 史科編纂所所蔵)では、二名の家臣(高四郎左兵衛門と梶原平右衛門)は不始末があった
 ので一色刑部等三家老により追放され、これを恨んで、江戸に来て幕府に直訴騒動に及ん
 だと記録され、この二名の直訴騒動により、幕府に目付二名を遣わされ3代喜連川尊信は
 見せしめられたと記録されております。

 高四郎左衛門は、追放により浪人したので「高修理亮」から「高野修理」と改名した?または
 、「高」は「こうの」と読むので、「高野」と、「喜連川騒動の顛末」執筆者または、この元となっ
 た文献『喜連川家由緒書』を執筆した五人の百性の子孫が感違いしたことも、一つの考察で
 す。

 また、現さくら市発刊の「『喜連川町史』第三巻資料編3近世」の資料には、旧塩谷家家臣で
 あり「長百姓となった高野鴨左衛門」と「町人となった高野加茂左衛門」の二名の記録が残っ
 ており、足利家が倉ヶ崎城(通称喜連川城)主となり喜連川を領してからは、彼らの身分は
 町人と百姓であることが判断されます。

 とはいえ、300年続いた江戸時代です。なんらかの機会があり彼ら二名の子孫が喜連川家
 家臣となった可能性を否定するものでもありません。しかし、高四郎左衛門のような由緒ある
 重臣ではないでしょう。

 確かに、『喜連川家分限帳』の厩番(六石取り)に高野姓の家臣、高野久平と高野角平の
 二名が確認できますが、平安鎌倉時代の足利家執事家の子孫が厩番になるとは・・・・?
 厩(うまや)番の家格は草履取の下になります。

 余談ですが、映画「武士の一分」の主人公の家禄は三十石で日々の暮らしは苦しく芋がら
 の煮付けと味噌汁と白米で、妻と下男一人を雇うのがやっとでした。

 そして、この高野姓を名乗る二名の子孫が同町役場関係者となり『喜連川家由縁書』
 参考にしたが故に、登場人物の高野修理と同姓であるがゆえ先祖の功労と誤解した上で
 「狂える名君」「喜連川 騒動の顛末」の執筆に係わった経緯もあり旧喜連川町の町誌
 編纂委員会の担当者(主事)は、その間違いに気付かなかったまた、気付いていたが慣
 れ合いもあり間違いをあえて正せなかった可能性はゆがめません。

 しかし、江戸の多くの文献、と最後の喜連川藩主足利聡氏が編纂した『喜連川義氏家譜』
 では、「喜連川騒動の顛末」『喜連川家由緒書』に記録された人物、高野修理は、実は
 「高四郎左衛門」であったことが記録に残され、公開されたので明白なことです。


*******************************