4 << 『喜連川町誌』(昭和52年旧喜連川町発刊)における事件の概要 >>

    喜連川騒動とは「喜連川町誌」昭和52年(1977)版の「喜連川騒動の顛末」によると

    、正保4年(1647)夏に、3代喜連川藩主尊信公の時代に初代喜連川藩主足利国朝

    より約58年に渡り親族として筆頭家老を勤めた喜連川一色家の当主一色刑部(少輔

    崇貞)等による藩政乗っ取り事件として記述されております。 (出典は、先に紹介し

    た『喜連川家由緒書』のようです。)


    **この一色刑部の「刑部」ですが、足利家の名門三河一色家当主に代々よく使わ

       れる名前です。喜連川の龍光院にある 一色家の墓 を調べた所、写真の右側

       の大きな墓石に「**院****居士」とあります。 残念ながら、「龍光院」は

       江戸時代に大きな火災にあっており、当時の過去帳が残されておりませんので

       正式な戒名は解らないのが現状でした。


       事件に関わる一色刑部(少輔崇貞)と左京親子の墓は左側の墓石ですが、この

       大きな墓石には生前の名はありませんが、死去年は慶安三年とあるので、喜連

       川家二代筆頭家老一色下野守義久であることが伺えます。また、 一色家の墓

       で最古の墓石ですので一色家の墓は事件後に作られたことになります。


       また、一色右衛門佐氏久は、足利義氏が幼少の頃、母方の後北条氏に加護され

       ていた時より、古河城の城代を勤め古河公方家の家政全般にあたった人物で、

       古河の鴻巣にあった足利氏女(うじひめ)を大檀那とした、この「徳源院」の過去帳

       は「『古河市史』資料中世編」に掲載されております。


       これには、一色下野守の名で藩祖足利国朝と共に供養されており戒名は「松香院

       圭峰周玄居士」で、死去年は慶長六年(1602年)十二月と記録されています。


       さらに、一色下野守の戒名中の「香」と「周」の字は足利義氏の戒名「香雲院殿

       長山周善大居士」から二字、「峰」の字は足利氏女の戒名「徳源院慈峰晃公大

       禅定尼」から一字使われており、主に古河公方足利義氏と氏女、喜連川初代

       藩主足利国朝に仕えたことが、理解できます。 よって、この一色下野守が一色

       右衛門佐氏久であると判断されます。そして、1602年に死去した一色下野守を

       「徳源院」にて葬った人物は、初代藩主足利国朝は文禄二年(1593年)に死去

       していますので、二代藩主足利頼氏と嫡子一色下野守義久であることが理解で

       きます。


       さらになんと、喜連川騒動事件の主犯とされる一色刑部(少輔崇貞)が四代藩主

       喜連川昭氏公と共にこの過去帳に記録され、「大嶋にて逝す」と記述されており

       ます。 戒名は「翠竹院松山宗貞居士」で死去年は、明暦二年(1656年)七月で

       した。


       共に記録された喜連川昭氏の死去年は正徳三年(1713年)十一月72才ですの

       でこの過去帳への記録により、三代藩主喜連川尊信の死去年は、一色刑部の

       死去の3年前、承慶二年(1653年)三月ですので当然、四代藩主喜連川昭氏

       本人の意思により葬られたといえます。 そして、一色刑部(少輔崇貞)は旧喜

       連川町が発刊した明治44年の『喜連川町郷土史』の「狂える名君」と昭和52年

       に発刊した『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」にて記述されたような「藩政

       乗っ取りを謀った逆臣」ではなかったことが伺えます。


       さらに、この戒名中に使われている「山」の字の場所に意味があり留意したい。

       この場所に「山」を使用するのは、足利家代々の男子の戒名の慣わしなのです。

       しかし、一色家では、この場所に「山」の字を使っているのは、確認できるところ

       では一色刑部(少輔崇貞)だけです。また、父である一色右衛門佐氏久(下野

       守)の名中の「松」の字も使われています。  参考)足利家代々の戒名


       すなわち、事件により一色刑部(少輔崇貞)の妻子は皆、他藩お預けである中

       で、刑部の死去に対して、孫である四代藩主喜連川昭氏の「喜連川藩の安泰

       のために、遠く伊豆大嶋の地にて死去した、同族でもある一色刑部への思い」

       が伺いしれるのである。当然、喜連川の「龍光院」においても、あの火災さえな

       ければ、同じような過去帳が存在していたことでしょう。


       なお、一色右衛門佐(下野守)氏久と同じく、古河公方家家臣で古河御奉公衆

       を勤めた一色宮内大輔直朝は、足利氏女(うじひめ)の父である足利義氏の死

       去(1582年)をもって、古河公方家を離れており、後の幸手一色家で徳川家康

       に付き関が原合戦での勲功により幕府高家旗本または大身旗本(交代寄合)

       となりました。

       この2家の祖は初代九州探題を勤めた一色直氏であり、関東一色家として同族

       、古河公方家の古河御奉公衆としても、徳川幕府に至っても非常に近く親しい

       関係であったといえます。源義家を祖とする足利家系図を参照。 また、この2家

       は江戸時代前期に双方ともに嫡子なく断絶とされているが、一色刑部少輔(崇貞)

       の実弟、根岸五郎左衛門(連談)家は現在に至っても存続している。****




      この事件は翌、慶安元年(1648)春尊信派老臣高野修理(70歳以上)が脱藩し、

      藩主尊信の正室(那須資景の娘)の子である万姫,、そして5人の百姓が密かに藩

      を抜け出し「筆頭家老一色刑部一派が主君尊信公を発狂の病と偽り城内にとじ込

      め藩政を我が物にしている」と幕府に訴えたことにより始まったと、昭和52年発刊

      の『喜連川町誌』の「喜連川騒動の顛末」に記述されている。そして、万幼い万姫

      と5人の百姓の上訴が、その身分により困窮したので、同士である梶原平右衛門

      も脱藩し浪人となり5人の百姓の身分を表す証拠を持参し評定にこぎつけた。


      幕府の評定役は酒井忠吉・杉浦内蔵充・曽根源左兵衛・伊丹順斎の4人であり、

      さらに、大老酒井雅楽頭忠勝・老中松平伊豆守信綱・老中阿部豊後守忠秋・老中

      阿部対馬守重次の4人が、その評定に参加し、幕府御上使が喜連川に向かい、

      調査をし、その調査報告により、彼等の上訴内容に間違いないことが確認され、

      一色刑部・伊賀金右衛門・柴田久右衛門の3家老が伊豆大島へ流罪、さらに一色

      左京(刑部の嫡子)・石堂八郎・伊賀惣蔵・柴田弥右衛門・柴田七郎右衛門の5名

      は大名旗本預かり、尊信派で若家老の二階堂又市(主膳介)当時15歳(故堆津

      下総守主殿の長子)は事件との関わりを恐れ出奔していたが、重臣であり役責不行

      き届きであるが、若年であるので減罪され白河藩主本多能登守に預けられた。と

      記述されている。



      注)「寛政重修諸家譜」では1648年当時の白河藩主は榊原(松平)忠次であり、

        本多能登守は1649年6月に白河藩主となっている人物である。 よって正しく

        は、3代尊信の母方の叔父、白河藩主榊原忠次に預けられたことが実証でき

        、この件は、明らかな間違いであり、事件当事者の記録であれば、明らかな

        歪曲文書です。 さらに、直訴は密かに決行されたのに、なぜ二階堂又市は

        事件発生前に都合よく出奔できたのか?  又市は、尊信派の計画に加担

        していたと、この「喜連川騒動の顛末」には記述されている。 しかし、『寛政

        重諸家譜』の喜連川尊信の項と『及聞秘録』で判断するかぎり、又市の父で

        ある二階堂主膳(殿)助は、一色刑部等と同じで高四郎左衛門・梶原平右衛

        門とは敵対関係であったと判断できる。


        また、この頃の二階堂主殿助の存在を示すものとして、喜連川文書に収録

        されている土井大炊頭利勝から一色刑部への喜連川尊信が病気であるの

        で「年頭の将軍家への挨拶」の名代役として二階堂主殿助の江戸登城を認

        める文書がある。


        そして、この文書の記述内容から土井利勝が大老職であったことが理解で

        き、さらに文中の「旧冬より」の表現から、喜連川尊信が「狂乱」に至り、家老

        達が合議し「押籠」とした寛永十八年(1641)の翌年(1642)の文書と判断で

        きることから、二階堂主殿助も寛永十一年の喜連川尊信の「押籠」に合議し

        ていたことになる。

        ところが、喜連川文書の「幕府老中から榊原忠次への書状」において喜連

        川家の家老達の中に二階堂主殿助の名がないことから彼は慶安元年当時

        にはすでに病死しており、新しい家老(伊賀金右衛門)が補填され、二階堂

        主殿助の嫡子、二階堂又市(15歳)は若家老職にあったと判断できます。

        さらに幕府評定に立ち会ったとする「大老酒井雅楽頭忠勝」だが、このよう

        な人物は、日本国の歴史的史料上では確認できない。


        酒井讃岐守忠勝が当時実在した大老であるが、「喜連川騒動の顛末」

        記述にある酒井雅楽頭は忠清のこととなり、事件当時はまだ若年寄であり、

        幕府評定にかかわれる地位ではない。


        また、この「喜連川騒動の顛末」記述の基礎資料となる事件で活躍した五人

        の百姓家の家伝書である古文書『喜連川家由緒書』(現佐野家(飯島平左衛

        門の子孫家)所蔵)には、


        「江戸表ニては、修理殿・平右衛門殿・五人之百姓、御万姫君様奉附添、

         御老中酒井雅楽頭(忠清)様・松平伊豆守様・土井大炊頭様・阿部豊後守

        (忠秋)様、御評定所御役人酒井紀伊守(忠吉)様・杉浦内蔵充(正友)様・

        曾根源左衛門(吉次)様・伊丹順斎(康勝)様、御一門之方は榊原式部大輔

        (康政)様・島田丹波守様・江戸御手引は早川内膳正様・今川刑部(高如)様

        ・吉良若狭守(義冬)様、御取持之内、杉浦内蔵充様え能出、委細ニ□□

        御万姫様被□仰上候、修理殿ハ池之端町名主大家に御預ケ相成、平右衛

        門殿ハ御旗本衆え御預ケ相成、」



       とあり、確かに酒井雅楽頭と土井大炊頭が老中として参加していたと記録され

       ている。 しかし、土井大炊頭利勝はこの事件評定時(慶安元年七月〜)の四

       年前にあたる寛永二十一年(1644)大老職の時にすでに病死している人物で

       あるので史実と矛盾している。 しかも、この『喜連川家由緒書』は本人達(五人

       の署名連判であることから、評定記述において、事件の二十年後(おそらく酒井

       雅楽頭忠清が大老であった時)に五人の百姓の一人、飯島平左衛門の子孫に

       より捏造された家伝書であり、五人の百姓による直訴事件の存在を示す史料で

       はあるが、幕府の事件裁定を正しく記録したものとはいえない。 しかも、旧喜連

       川町史編さん委員会による「喜連川騒動の顛末」では土井利勝は外され、安部

       対馬守に、酒井雅楽頭(忠勝)と修正されている。



        (笑止、大老酒井忠勝は酒井雅楽頭家の分家である讃岐守であり。 しかも、

        安部対馬守を評定に参加した老中に追加するにあたり、「喜連川尊信の狂乱は

        間違いない。」と記録された、旧喜連川町教育委員会所蔵である喜連川文書

        幕府の公式文書(書状)で白河藩主榊原(松平)忠次(1603年に死亡している榊

        原式部大輔康政の養子)に宛てられた三通の書状である「江戸幕府老中連書状」

        の記録にたよったと思われる。 つまり、昭和52年に発刊された『喜連川町誌』の

        「喜連川騒動の顛末」(旧喜連川町誌編さん委員会)の記述も、高野修理等の

        尊信派を忠臣であったかのように意識的に都合よく改ざんされた記述であったと

        いえる。


        つまり、三代藩主喜連川尊信の「狂乱の事実」と一色刑部等三家老が喜連川家

        を守る家老としての職務に従い藩主尊信の狂乱を幕府に隠した忠功を記述する

        ことは旧喜連川町が明治44年に発刊した『喜連川町郷土史』の「狂える名君」

        誤りを認めることであり、旧喜連川町の誇りある喜連川公方家(喜連川足利家)の

        イメージを貶めるものでもある。


        しかも、旧喜連川町の町史編さん事業を進めるにあたり、重要な史料となる古文

        書を多数所有する現佐野家の家伝書『喜連川家由縁書』の内容を否定すること

        は現佐野家(旧飯島家)の面目をつぶすことになり、目下の喜連川町史編さん事業

        に多大な支障を起こすことから、やむなく事件記述の歪曲改ざんに至ったのではな

        かったか?)